あけましておめでとうございます。
足るを知る鼠も人も初日の出
二宮尊徳を知る人は多い。昼間聞いた話を深夜弟子の福住正兄が書き留めておいたものを後になってまとめたものである二宮翁夜話に鼠が出てくる。「鼠の地獄、猫の極楽」というところだ。「先生はおっしゃった。吉凶・禍福・苦楽・憂歓などは、相対して表裏一体のものである。実際の財政建て直しなどの実務を通して弟子達には教育していたのであろう。猫が鼠を捕ったとき、猫にとってそれは楽しみの極みだが、捕られた鼠にとっては苦しみの極みである。」
今年の干支は子・鼠である。鼠は大黒天の神使といわれる。鼠の敵である猫の年は干支にはないわけだ。
世界の出来事は、こちらが勝って喜べば、あちらは負けて悲しむ。こちらが利益を得て喜べば、あちらは利益を失ってかなしむ。
しかし尊徳さんは本当の道を次ぎのようにいう。「商売は売って喜び、買って喜ぶ。借りて喜び、貸して喜ぶ。そのような道がある。」
開顔や侘び助一つ又ひとつ
「逃げずに改める」という夜話に、例えばはかりのようなもんだというのがある。
「自分の家が本当に仁義の家になれば、その村は必ず仁義の村になる。最も難しいことだが、少しずつ改めていけば一新する機会がある。秤のつりあいのようなもので、左が重ければ左に傾き、右が重ければ右に傾くのと同じだ。善人が多くなれば善に傾く。だから恥というものが生じるし、正義心も生じてくる。学問は活用を尊ぶ。万巻の書を読んでも学んだことを活用しなければ役に立たない。」
はかりも使わなければ意味をなさない。使い方も工夫していきたい。
ななかまど秤の錘を右に寄す
「目盛りのない秤を使って軽重をはかるようなもので、一日中論じてもその当否はっきりしない」という「悟道と人道は違う」項がある。「悟道は、自然の運行をただ見るだけだが、人道はそれに手を加えていくべきだと考える。議論には論ずる立場を定めて、その後に論じなさい。」
使う秤がこれでいいのかという選定が必要である。
さて、昨年こんなことがあった。大変難しい箇所にロードセルを組み込んだ。予定以上の効果があった。暫く使用していたが使えなくなったと連絡が入った。やっぱりだめだという意見が出ていたという。私たちは使用できなくなった原因をつきとめ、改良した。衝撃をやわらげる対策を施し初期の予定の能力は充分に発揮している。
目盛盤を一ミリずらし寅彦忌
振子式指示はかりの調整を教えていただいたのはもう四十年以上前になる。垂直にくる力を円周目盛りにするために振子を回転させ、つりあわせるのであるが、誤差がどうしても生じてしまう。カムやバランス玉で調整したあと、目盛盤をずらすことが必要だった。電気式になり、いまでは考えられないことである。しかし器差の異常が発生し、現場に立つ時に思い出される。
夜話に話を戻そう。
「先生はおっしゃった。大事をなそうと思ったら、まず小さなことを怠らず勤めなければならない。小が積もってはじめて大となるのである。たとえば、百万石の米といえども、米粒が特別大きいわけではない。万町歩の田を耕す場合でも、その作業は一鍬ずつの仕事からである。小さなことをいい加減にする者は、大きなことも必ずできないのである。」(「大は小を積んで大となる」)
和光同塵冬のはじめを哀しまず
「湯を手で自分のほうに掻き寄せれば、湯は自分の方に来るようにみえるけれども、結局はみな向こうのほうへ流れ帰ってしまう。これを向こうのほうへ手で押すときは、湯は向こうのほうに行くように見えるけれども、また自分のほうへ流れ帰ってくるのである。」(「湯船の湯」)
「人と刃物をやり取りするときに、刃の部分を自分のほうに向けて差し出すが、これが道徳の根本というものである。刃先を自分のほうにして、相手に向けないというのは、万一間違いがあったとき、わが身を傷つけても、相手には傷をつけないようにしようとする心から発している。」(「道徳の基本」)
今ものごとが、特に計量法のからみが「はずだ」で動いているように思える。適正な計量があちこちで担保されているはずだ。当然担保されている。
しかし法体系が変化したら、いや今の法のままでも実体はどんどん適正な計量の担保が瀕死の状態に推移している。自分だけがよければというのであろうか。
計量の安全が保たれていた時代は関係者の必死の努力の継続があった。地球にはいつも同じ空気と酸素があるとあたりまえに思っているのに似ている。新しい年が二宮尊徳を見直す年の始まりになるのかもしれない。
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