日本計量新報 2011年10月2日 (2887号)掲載
僕の車歴
(株)長野計器 切田篤 |
1969年の夏、大学の造船学科に入学した僕は、大阪府池田市の井口堂に下宿していた。同級生と折半で、僕の最初の車、1966(昭和41)年製のコンパーノ・ベルリーナを買った。校内で運転の練習をして、翌年、奈良の試験場で普通免許を取得した。
ベルリーナはダイハツ初めてのサルーンで、デザインはイタリアのヴィニヤーレ、今思うと、実に小粋なデザインであった。冬になると琵琶湖周辺へ週末ごとにナイタースキーへ出かけた。菅平や戸隠へ出かけた時には、スキー場に到着するなり、まず冷却水を抜いて、死にかけているバッテリーは室内に持ち込んだ。帰る時には宿からやかんにお湯をもらって、給水、いや給湯し、暖かいバッテリーを繋いでやると、いつでも一発でエンジンはかかった。不凍液など買えない貧乏学生の秘策であった。
大学4年の春、友人からコルト1000Fを譲り受け、東京に戻って来た。三菱が500ccから始めた普通車、2サイクルの800から進化した4気筒エンジンは快調だったが、ファストバックなのにリアハッチが無い2ドアで、何とも中途半端なデザインの車であった。
大学院に合格すると父がシビックGLの新車を買ってくれた。3カ月後にはスポーツ仕様のRSが発売され、買い急いだことを悔やんだが、その後ホンダマニアと知り合い、ミッションとキャブを145クーペの5段、ツインキャブにバージョンアップし、RS+仕様へと進化した。足回りも昭和純正の輸出仕様に交換し、13インチに履き替えた。もちろん車の性能は格段に向上したのだが、燃費も20%ほど向上したのは、意外だった。屋根に穴を開け、キャンバスのオープントップを付けると、車内にパイプの煙がこもらなくなった。12年で16万km走り、英国留学を機に友人に譲った。
サウザンプトンでは、シトロエンGSエステートを大学講師の方から譲り受けた。嬉しいことに、この車にもシビックと同じオープントップが付いていた。1220ccの非力な車だったが、フランス車の常で高速性能は良く、ヒューンと言うファンの音とともに、空冷ボクサーエンジンは良く回った。ハイドロの足回りも、2年間故障知らずで、乗り心地は秀逸であった。英国では他にも帰国する友人のミニを預かり、処分できるまで3カ月ほど乗っていた。ゴムのサスペンションは、モールトンの自転車、AM7と同じ原理だったが、モールトンの4分の1の値段で大学の学生に引き取られて行った。
帰国して1年ほどはブルーバードバンに乗っていたが、赤いBDファミリア、サンルーフに乗り換えた。家族が増えて手狭になり、車はスライドドアのプレーリーに代わった。
スキーにも家族で出かけるようになり、四駆のMPVが発売になったのを機に、グランツの寒冷地仕様に乗り換えた。職場のサイクリングクラブ、RCCのランに出かけるときには、屋根に4台、後ろに2台、スーリーのキャリアで計6台乗せて走った。10年乗ると、サンルーフは開かなくなり、ディーゼルエンジンも燃料ポンプを交換しないと車検が通らなくなった。
家族で出かける機会も無くなったし、子供の頃からあこがれていた、2シーターに乗りたいと、2006年の12月になじみの車屋さんに相談したところ、「良いのを見つけてくるから、しばらくこれに乗っててね」とクリスマス・イヴに持ってきてくれたのが「ファミリア・ネオ」。
この車は1996(平成6)年発売、全く売れず2年を待たずにモデルチェンジされた悲運の車なのだが、乗ってみると良く走る。学生時代に乗っていたシビックとよく似ているが、格段に洗練されている。幸いエアバッグ無し仕様だったので、シビックで使っていたナルディが、そのまま使えた。なぜか気に入ってしまい、オープン2シーターは先に延ばして、しばらくはネオに乗ることにした。2007(平成19)年の2月13日に、つくばナンバーが発行されることになり、朝早くから土浦陸運局に並んで、14番というナンバーをもらってきた。
同年7月の車検を前に、僕のミスでエンジンを焼き付かせてしまい、交換する羽目になった。外したエンジンのヘッドだけを残してもらい、一年かけて紙ヤスリで丹念に磨き、最後は青棒でミラーフィニッシュまで仕上げて、ヘッドを載せ替えた。
ネオは発売期間も短く希少車種なのだが、デザインは当時フォードと協力関係にあったマツダのヨーロッパ、ベンツから引き抜いたチームがデザインを手がけ、ミシャル(?)という天才デザイナーによるラインらしい。最近はやりのリヤバーチカルウィンドをいち早く取り入れ、最近の車にありがちなデザインの破綻が無く、オーソドックスなミニクーペにまとめられている。
20代目の車は、ひょんな機会から乗り始めたネオであるが、このまま長く付き合うことになりそうである。
2009年10月、秋田日帰りドライブ、男鹿半島にて。
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