日本計量新報 2015年1月25日 (3042号)5面掲載
誤差はなくなればよいか
日本大学教授 矢野耕也 |
計量の目的は、なるべく正しい値を求め、不正確に起因する弊害を防ぐことにある。誤差の定義は「測定値−真値」でこれは疑うべくもないが、真の値がわからないから計測をするのだという矛盾は、存在しないという存在は存在するのか、などのようにもはや哲学の域に入るような話である。言葉遊びはともかく、多くの先達が計測器の精度向上にしのぎを削ってきて、今では数千円程度の時計にも1/1000秒精度のストップウォッチ機能が装備されていたりと精度のインフレ感もあるが、半導体や精密加工のようなもの作りの作業となると、まだまだ誤差の征服には至っていないのであろう。
話は変わるが、作曲を副業としている研究者の友人が、「腕のよいプレイヤーの演奏はとにかく正確だ」という。その友人に対し「ではゲームや携帯電話の奏でるリズムは完璧に正確だけれどどうして面白くないのか」という意地悪な質問で返すと、曲の良し悪しの問題はあるがという前置きはあるにせよ、「優れた演奏やノリがいい音楽って、結局は僅かに誤差があるからなんだ」という答えが返ってきた。この発言には若干の説明が要るが、彼がいうには、曲を流すだけならば現在は生演奏さえも技術的にはコンピュータで可能で、そのコンピュータによる演奏は正確無比であるが、人による演奏の微妙なズレすなわち誤差が、奏でられる音楽の躍動感を生むのだという。日本のコンピュータ支援演奏の始まりは1963年の京王技術研究所(現在のコルグ社)が発売した打楽器のリズムマシンといわれ、その後音源がデジタルになり、デジタル音源(生演奏からサンプリングしたものもあり)に限定をすれば、プログラムで指示さえ与えれば演者なしの演奏も可能となっているようである。1980年代の中頃からレコーディングの際の打楽器の代用で普及が進んだが、個人的には単調にも聞こえる打音の刻みに違和感を覚えていた。
もちろん工業計測の誤差とは前提も目的も異なるから、拡大解釈をした音楽の話を一緒に並べるのは間違いであるのだが、譜面に限りなく真の値に忠実に演奏をする機械と、ミスもあるけれど体を捩じらせて熱演する姿ではどちらがよいのだろうか。これは主観的なものでもあり、また譜面上の正確なパターン以外がダメともいえないのだから解はないのかもしれない。ところで誤差から脱線するが、イギリスの作曲家ホルストによる組曲「惑星」は、原曲から楽器編成、混声合唱人員の変更など、真の値である原曲からの逸脱を一切認めなかったという(1976年の冨田勲の作品から縛りが緩んだといわれる)。音楽のアレンジや再演の差を普通は創作や創造といい誤差とはいわないが、真の状態から外れた誤差の存在は、工業界以外では意義があると受け取られることもあるのだと、その友人の話から感じたものである。CDやDVDの視聴では飽き足らず、生演奏に足を運ぶことの意味はこういうところにあるのか、音楽に疎い自分にはよくはわからないが、誤差の存在に有効な側面もあると気づく数少ない例ではないだろうか。 |