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計量計測データバンク「日本計量新報」特集記事寄稿・エッセー(2015年一覧)>【小宮勤一】70年目の3月10日

日本計量新報 2015年2月22日 (3046号)2面掲載

70年目の3月10日

(一社)日本計量史学会理事 小宮勤一

小宮勤一まもなく70年目の3月10日がやってくる。前の年に東京の下町の国民学校を卒業して中学校に入学した私は、中学生としての生活をほぼ1年過ごした頃であった。新しい環境で英語、漢文の授業や軍事教練に少し慣れて、当時としては珍しかったかもしれないが、まだ勤労動員に引っ張り出されることもなく、比較的充実した1年間を送っていた。ちょうど3学期の期末試験が終わった翌日であったことを覚えている。
 夜半に警戒警報が発令されたけれども、間もなくそれも解除されたと記憶している。夜半過ぎに再び警戒警報、続いて空襲警報が発令された。投下された焼夷弾で発生した火災は、北からの強風にあおられて燃え広がり、そのうちにわが家から2、3軒先の茅葺の家に火が付き、わずかの荷物を持って家を飛び出すことになった。祖母、母、小さい妹2人と一緒に近くの川に沿って南の川下の方角に逃げなくてはならなかった。
 幸いなことに私たちの周りは火に包まれることもなく、辺りに同じ様に逃れてきた何人かの人たちと一緒に、寒さと眠さに耐えながら一夜を明かすことになった。何時間が過ぎたであろうか(実際は2時間程であったといわれている)もうすでに夜が明けているはずであるが、上空には火事の煙が充満していて、強風にもかかわらず太陽は見えない。そのうちにようやく日がさしてきて、あたりの様子がはっきりしたが、まだ火災は残っている。しかし帰る家はない。近くにいた人々と無事を喜びながら、火が残っている道を焼け残っている集落をめざして歩き始めた。周りの様子は目をそむけたくなるような無残さであった。焼け残った知り合いの家にお世話になり、はだしで飛び出した母が履く靴をいただいて両親の田舎に向かった。疎開していた弟、妹、そこを訪ねていた父と一家そろって無事を喜ぶことができたのは2日ほど後のことであった。
 しばらくしてから国民学校、中学校の同級生が何人も亡くなり、国民学校の教頭先生が校舎の火災を気にして学校に向かう途中で、中学校の担任の先生が学校の消火活動中に戦災死された、などという話を聞くことになった。この後焼けた家の近くに住むことはなく、また私の国民学校は廃校になり近くの学校に統合されてしまって同窓会のよりどころがなくなり、同期の友人たちともいつしか疎遠になってしまった。
 少し時間的に余裕ができたころから、3月10日の前後に昔のわが家の辺りを何回か訪ねてみた。時には家族と一緒に行って子供や孫に当時の話をしたけれども、どれだけ理解してくれただろうか。最初のころは昔の友人の家の門の石柱を見つけたり、わが家のあった辺りを探すことができたが、2、3年前に歩いた時には、場所をはっきり確かめることができたのは神社の鳥居とお寺の墓地だけで、他には昔の面影を残すものは何も見当たらなかった。私はあの戦災で何人かの友人、先生、知人、自分の住んだ家、小さいころの貴重な写真などたくさんのものを失った。田舎の両親の生家や子供のころ訪れた場所を再訪する機会があると、その風景のなかに小さいころの自分を見ることができる。しかし70年前のあの何時間かの間に、子供のころを過ごした町が消えてしまったことは、私のなかから貴重な何かが失われてしまったような気がしてならない。


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