古くて新しい問題として浮上してきた団体統合は、計工連を除く3団体統合という形で実現し(社)日本計量
振興協会として新発足しました。
漸く1年を経過しましたが、日計協、計管協、そして日計士会の会員と事業の相違はなかなか融合の域に達しない様子も見え、あらためてそれぞれが培った伝統と習慣そして基盤の重さが感じられます。唯、合併直前のそれぞれの団体の現状認識が会員個々に十分に把握されていたかどうか、情報が流されていたかどうかについては、極めて大きな疑問が残っています。役員或は極端に言えば会長それ自身何もわかっていなかったと思える節もないではありません。
大同団結が叫ばれた1955年代後半からの動きと、計量 会館建設問題とをなぞりながら新生(社)日本計量振興協会への期待を考えてみたいと思います。
新しい計量法が施行されて間もない1953年頃に、はや日計協の危機がおとづれています。会員数1500名、支部数10、団体数13程で事業収入は計量 法令集の発行のみでありました。計工連も予算のない工連と言われていたし、通省産業省の肝煎りで華々しく発足した計量 管理協会も会員増加が進まず財政的困難が生じてきていました。こうなって、浮かび上がって来ましたのが大同団結ということでした。この時、この問題は中央、地方で結構脚光を浴び、1955年頃には計量 新報社主催による団体統一協議会が開かれ大同団結促進委員会が発足しています。
1959年頃になって、計量会館建設の話題が出はじめ、東北北海道計量 協会連合協議会は大同団結の実現を決議しました。盛り上がりを見せてきた大同団結論は、日計協による中央計量 協議会の設立となり1962年の日計協50周年記念事業と併せて、大同団結に備えた活動の拠点とする計量 会館の建設を行うとしました。はじめ、建設資金は全計量関係者出資による株式として調達し、港区明舟町の度量 衡会館敷地に、地上八階地下2階のビルを建設する案が示されました。後、事業は中央計量 協議会から日計協に移され会館推進委員会となりましたが、そのままの案では建設が不可能であるとの結論に達し、度量 衡会館の土地を売却して、代替地に建設することになりましたのが1964年の頃でした。土地売却代金のみでは建設費が足りませんので、全計量 関係者から地方計量協会を通じて目標3千万円の募金計画を立てました。委員長問題、土地売却にからむトラブル、送金紛失問題などがありましたが、募金も集まり1965年9月17日に起工、1966年3月24日に現計量 会館の竣工を見るに至ったものです。
この時の経理は次のようでした。
収入
土地売却代金等合計 72,281,210 円
募金総額 30,450,000
合計 102,731,210
支出
土地買収費 45,500,000
立退料 他 4,113,000
会館建設費 40,400,000
残額 12,718,210 円
計量会館が建設され、会館の中に計工連、計管協などの事務所が収まったことから大同団結に対する運動は今後に期待することでおさまりを見せました。
さて、規制緩和、省庁再編、地方分権と世の中の変化は極めて早くそして大きいなかで、計量 制度が地方分権による県の独自性を強調することから自県産業新興の立場(今までの経過から見るとその現象は見え隠れしていました)を考慮しながらの行政であり制度となると、日本全体での統一性、一貫性は損なわれそうにも思えます。何も古い制度が良いと言うつもりはありませんが、適正な計量 器の供給と不正計量の取締まりに端を発した度量衡制度は一つの波の中に埋没されようとしている様に思えます。このような中で、計量 関係団体もこれらの変化に合わせ、日本における計量規制における計量技術の高度化と共に、適正化、統一性の確保、効率化を見据えて、より充実した事業を展開するため三団体の合併が実現したものと思われます。
省庁が再編され、国立標準研究所が独立行政法人になる世の中では、独立国の基礎とも言われてきました度量 衡が古来からの、そして従来からの制度に、その思想や方法を変換せざるを得ない状況に追い込まれていることは当然かも知れません。しかし、社会秩序の維持、科学、技術をはじめ、あらゆる面 に欠くことの出来ない制度である以上、計量法第一条の目的達成に最大の努力が必要となりましょう。
多分、国や独立行政法人は、必要最小限のそして収支計算的な行為しかなし得ないと考えられます以上、新たに発足した(社)日本計量 振興協会に課せられた責任は、いやが上にも大きくなるように思えます。
(社)日本計量振興協会にたいする期待は極めて大きく、今までの状態から脱却し、合併した利点を最大限に活用し、勇気をもって事業を整理する事が出来るかどうかが、今後の極めて大きな課題ではないでしょうか。新たな事業展開から計量 に対する世の認識を盛り上げられることを祈念して止みません。
ここで今、統合問題が具体化していった経緯と、合併直前までの3団体についての状況を見ることも、また必要なことと考え、独善的な主観と感覚でたどってみたいと思います。
1.(社)日本計量協会
1894年に設立された大日本度量衡会に端を発し、1911年に設立された(社)日本度量
衡協会から(社)日本計量協会にいたるこの会の計量行政、メ−トル法普及運動に代表される偉大なる貢献に対しては何人も異論なく認めるところでしょう。個人を会員にして、各県に支部があった組織から、独立した地方計量
協会の連合体になったころから、その運営が次第に衰退したようにみえます。1966年計量
会館の設立にあわせて大同団結が大きな議論になりましたが、実質的には実を結ぶことにはならずに、会館内に事務所をもつことで、事業に連携を深め、将来に向けて希望を託しました。しかし次第に、計量
協会の収支のバランスが悪くなるとともに、関係団体の独自性は強くなっていきました。1980年頃には財政的にも困窮をきたし、特別
会計であった会館会計から一般会計への流用も底をつき、暖冷房装置の修理もできない状態になっていました。その後、暖冷房装置は入居団体の事務室については入居団体が負担し共用部分は日計協の借入金でまかない新設されました。
事業の大部分が補助金によるものであっても、事業遂行にあたる事務員は会長会社(金門製作所)からの出向社員が受け持つようになり、大きな援助が続くことになりました。このような状況が永年続いてきたことに大部分の理事の方々がそれほど不自然とも思っていなかったことは不思議とも何とも言いようがありません。監督官庁を含め、会長を始め専務理事以下の怠慢が追及されても止むを得ないような気がします。小野田氏が金門製作所を去るに及んでは、何らかの方策を考えなければならない状況になっていたと思われます。
2.(社)計量
管理協会
1952年の計量法施行とともに、通商産業省の肝煎りで、我が国の大企業を含めた多数の会員を擁し、大物理事長を得て誕生、運営が始まった計量
管理協会は、大量生産化やオ−トメ−ション化が叫ばれていた時代こそ脚光をあび、雑誌、計量
管理も多くの人に読まれていました。しかし、会員増強も思ったほどには進まず、講習会の開催と出版事業を主たる事業としてきましたが、学会或は専門誌との競合などから、時ならずして財政的に苦境に立つことになりました。1975年頃、環境計量
、環境計量士の登場から一時財政の潤うときもありましたが、1982年頃からは出版事業の衰退特に技術誌の不振は当協会にも深刻な状況を生じさせました。1986年には財政状態が極めて悪化し、対策がないまま副会長、専務理事の更迭が行われました。行政特に計量
研究所と会長会社(島津製作所)との絶大な協力のお陰で、曲がりなりにも事業を行えるようになるにはそれでも約5年程の年月が必要でした。1993年の新計量
法の施行により計量標準の供給に関する事業を開始したものの、財政の悪化は止められない状況になり赤字決算も目前でした。
3.(社)日本計量
士会
一番新しい団体ですが、その歴史は古く度量衡法時代に既に全国団体の運動もあり又、計量
士法制定の議員提案さえなされていました。1951年の計量法公布とともに計量士の名称が法制化され、各県に県計量
士会の誕生を見るに至りました。全国的には(社)計量管理協会の一つの部会としてまとまったが、1959年に独立、連合会を発足させた後、10年後の1969年社団法人化を達成しています。1980年頃の計量
士会は、事務局員は検査員を含めて専務理事以下わずか5名、法人としての体裁を保つためには会長(長野計器製作所社長 溝呂木金太郎氏)からの財政援助が欠かせませんでした。1983年溝呂木氏の死去により会費を値上げし、専務理事をはじめ理事、会員の努力によって2年前から発行し始めた計量
ジャ−ナルの刊行をつづけ、又検査事業の充実、計量士基礎技術講座と一般計量士国家試験直前準備講習の拡大、新設の努力から事業収入を増大させて財政を安定させました。財政の安定は、会員に対する事業を拡大させ、会にたいする信頼を勝ち取ることができましたが、1960年代には計量
士制度の廃止が提案されたり、1990年頃には定期検査周期が一気に3年にするなどの勧告が出そうになったり、不安がつきまとう事もありました。団体としてはそれなりに形も整いましたが、これ以上の発展は社団法人の指導要領の変化もあって困難視されます。度量
衡監理員から続く計量士制度を、ひいては計量制度を発展させるため、そしてこの変革のときに対応するため計量
界を一つになる必要があるであろう。又計量管理を推進する事を職務とする計量士が定期検査の免除のみを仕事とするようでは、より大きな発展は望み得ませんし、計量
士そのものの職務が隠居仕事ではなく、社会的に認可された職種とするためには、外圧とともに自意識を確立させることが重要であろうし、計量
士会単独の力のみよりは計量界全体としての認識が必要になるであろう。
日計協と計管協とは、会費のみでは事業遂行の費用を捻出するには足りませんので、補助事業、委託事業に頼らざるを得なかったことは、会員に対する事業の欠如になって現れていました。両団体に言えることは、会長、副会長、特に専務理事の危機感の無さが財政悪化をもたらしたと思えますし、専務理事がお役で勤めている様では、効果 があがる筈はありません。監事の権限がどこまであるのか分かりませんが、適切な収入、支出の指摘が出来なかったものでしょうか。
合併直前の3団体における専務理事と職員の給与水準で日計士会が一番低かったことは、極めて大きな問題としてとらえることができますでしょう。
さて、計量会館は大同団結という一つの旗の下に、約35年前に建設されましたが、名のみで実のないものであったようです。何故か大同団結という言葉は何時でも古くて新しい響きを醸し、何故か日計協の財政問題の議論が生じたときに持ち上がっているように思えます。1986、7年頃に団体統合のための会合がもたれて、約2年間にわたって計工連、日計協、計管協、日計士会の専務理事によって協議されましたが、危機認識の違いと、それによる真剣さの欠如からか、中途で挫折してしまいました。その後、社会情勢の変化や団体状況の変化は、計量 行政室の危機意識も加わり、団体意志の打診後再び団体統合の話し合いに入ることとなりました。かくして、漸く4、5年前から具体的になってきたものです。計量 行政室が加わったのは、前回の経験から、団体のみでは各団体のプライドや利害得失もあって話が進みにくいことと、中間的役割と、指導的役割を果 たしてもらうためでありました。はじめ、3団体の専務理事、常務理事と計量行政室とで話し合いが進められていましたが、この話し合いをより強固にするため3団体の副会長1人を加えて統合推進委員会としました。会合は2年有余真剣な議論に終始し3団体の専務理事、常務理事の努力と作業量 は膨大なものでありました。
最後に、統合に至る簡単な経緯と新団体への期待を述べて置くことにします。団体統合についての最初の確認事項は、
1.3団体は、あくまで対等の立場と平等を前提として合併する。
2.新団体の会長は、現在の3団体の会長は就任しない。
の二つでした。
ただし、合併のテクニックとして、計量会館を財産とする日計協の解散は税負担が膨大になることと、3団体共解散して新団体を設立することは、手続的にも極めて繁雑になりますので、(社)日本計量
協会を存続団体とし、(社)計量管理協会、(社)日本計量士会を解散して、(社)日本計量
協会の定款を改正して2団体を受け入れることとしました。
3団体の会員構成、会員資格、正会員の問題そして会費など調整すべきことが多く、2転、3転の議論が続きましたが、現状維持を確認したことから徐々に問題点が絞られ、妥協に向かって進み始めました。3団体が定時総会で合併についての承認を得た段階で、統合推進委員会も更に必要な委員を増強させ、統合準備委員会として問題解決を行うことにしました。役員、ブロック会議等の位 置付けも決まり、代議員制度も何とか合意を見て、平成12年2月、計管協、日計士会2団体の解散総会も終了しました。日計協の定款改正などの総会に端を発した理事数問題に関するトラブルの原因は、日計協の地方副会長、常任理事等の統合準備委員会への参加が無かったことと思われますが、統合推進委員会、統合準備委員会が2年有余に亘る検討結果 の集大成と最初の確認事項を、心ない2人の人の独善と専断により反古にされ、しかも統合準備委員会に一言の相談もなく行われたことは、行政に対する極めて大きな不信感を招き、委員会の議論が無駄 であったような気がします。一体あの労力は何であったのでしょうか空しさだけが残こります。このため、事務局にどれだけの手間と費用をかけさせたことか、以後の運営に大きな負担を掛けたのではないでしょうか。新団体は定款改正をした今、旧(社)日本計量 協会の運営を大きく変え、体質を変えられなければ前者の轍を踏み、日ならずして財政的危機を迎えることになるのではないでしょうか。旧(社)日本計量 協会にたいする小野田氏の後援と計量に対する熱意と努力には深甚な敬意を払うものですが、それとこれとは違うように思われます。
さて、3団体が統合され新たに(社)日本計量
振興協会が設立されての期待は何なのでしょうか。
今は停滞気味と言われている規制緩和、地方分権、省庁の再編、国際標準化等の実行、進展などがある中で、長年の強制法規だけの枠内でことが済んでいた時代は過ぎて、極めて広い範囲の中での対応が必要になっていると思えます。ある範囲内のパイをみんなで分けあっているのでは、総体的な発展はありえないのではないでしょうか。会員の層も厚くなり、事業の範囲も広く、弾力性も持ちうるようになった筈です。計量
制度を総合的に考え得ることは、役割分担を明確にでき、行政への提言も可能になると考えられます。
(社)日本計量振興協会の運営が順調に進展するためには、専務理事の器量
と能力そして手腕に負うところが最大でしょうし、さらに、多すぎる70名にも及ぶ理事の中でボランティヤと広言して憚らないしかも、消極的な人達の意識改革と全理事の積極的な協力そして事務局態勢の強化が不可欠のことと思われます。
社会秩序の維持や産業、技術、学術に必要な計量制度の発展のために、社会的認知が得られるよう努力され新協会が限りない発展を遂げるよう心から祈念して止みません。
since 7/7/2002