新しいトレーサビリティ制度がもたらすもの

               

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 計量研究所熱物性部長 小野 晃

 

 本稿は一九九三年につくられた計量法トレーサビリティ制度の現状を説明するとともに、背景や同制度がはたす今後の役割等も考察している。本稿は計量研ニュースVOL.47 10に掲載された。(編集部) 

 

はじめに

 新しいトレーサビリティ制度はヨーロッパで十数年前から普及し始めたが、EU域内の経済統合の進展とともに制度導入当初のねらいは変質してきた。一方平成五年に新計量法の成立によって導入された日本の新しいトレーサビリティ制度も日本の社会にさまざまな波及効果を及ぼしつつある。また計量標準に関する国際相互承認は、一世紀を超えるメートル条約の歴史の中で最大規模の事業となるであろう。これがもたらす世界的な影響は非常に大きい。
 ここでいう「新しいトレーサビリティ制度」とは二つの制度を含んでいる。一つは標準の供給制度であり、他は校正事業者の認定制度である。標準の供給は以前から国の仕事として行われてきたが、民間校正事業者の認定制度はごく最近の制度である。
 ところがその認定制度の導入が、古い標準供給制度にいろいろな変革を与えている。「新しいトレーサビリティ制度」としてここでは、新たに導入された校正事業者の認定制度だけでなく、それに伴って引きおこされた標準供給制度の変革もとりあげる。本稿では、新しいトレーサビリティ制度の現状を解説するにとどまらず、トレーサビリティ制度の背後に潜むもの、今後トレーサビリティ制度がもたらすと考えられるさまざまな事象に関して考察を試みる。

国家計量標準の信頼性と透明性

 従来、国家標準をつかさどる機関の活動は扱う精度が著しく高いため、一般からすると非日常的である。いちいち問わなくても国立標準機関はしっかり標準供給をやっているとの前提があったと思われる。ところが不確かさの厳密な評価は技術的に容易でない面があり、国立標準機関といえども十分に行えているとは言い難い面がある。
 一方経済がグローバル化し、部品、製品、サービスがあらゆる国から流れ込み、あらゆる国へ出ていく時代となると、世界には必ずしも国家計量標準に問題がない国ばかりでないことも見えてくる。まずEUの経済統合の過程で、参加国の間でそのような懸念が顕在化した。
 また先進国同士の間でもそのような通商の問題がなかったわけではない。特にアメリカは計量標準に関して独自の考えを持ち、以前から規制当局や産業界が他国企業に対してNISTトレーサブルな計測を要求することがしばしばあり、日本に限らずどの国も対米通商に関しては、国家標準の同等性について潜在的な問題をはらんでいた。
 新しいトレーサビリティ制度の第一のポイントは、これらの問題に包括的な解答を与えようとしていることである。国立標準機関といえども互いに標準が同等であることを、科学的・技術的な根拠をもって外部に示そうとしている。それが国立標準機関同士の国際比較であり、その結果の公表と相互承認である。同等性を示すということはすなわち、同等でないことを示すことをも意味している。そのために明確な手続きを規定して国家標準の国際比較が行われることになり、その結果にもとづいて各量とその範囲ごとに互いに同等な標準機関名を明示することになった。

トレーサビリティについて

トレーサビリティの定義:不確かさがすべて表記された、切れ目のない比較の連鎖を通じて、通常は国家計量標準又は国際計量標準である決められた標準に関連づけられ得る測定結果又は標準の値の性質
<出所:JISZ9325(校正機関及び試験所の能力に関する一般要求事項)(ISO/IECガイド25)>

不確かさの定義:測定値が、一般的に見込みとともに、間違って見積もられる範囲を特徴づける目的で評価される結果
<出所:国際計量基本用語集(VIM)>

図1 トレーサビリティのイメージ


国際トレーサビリティの合理化

 現在国家計量標準の国際相互承認協定締結に向けて議論の途上にある問題であるが、国家標準の同等性の表明に際して、すべての国立標準機関が自己の一次標準の国際トレーサビリティを明示する方向で調整が進んでいる。つまり自国の一次標準を定義にもとづいて自己で設定したのか、もしそうでなければどの国の標準機関で校正を受けたのかを明記することになると思われる。
 実際問題として標準を定義にもとづいて自己で設定している国は世界的に見ても多くない。量にもよるがおよそ十ヶ国、あるいはそれ以下というところである。ほとんどの国は自国の一次標準の校正を他国の標準機関で受けることにより、国際標準へのトレーサビリティを確保している。しかしながら現実の問題として国家標準の国際トレーサビリティ体系は非常に複雑かつ不透明である。ある国の国家標準がどの国にトレーサブルになっているかは、他国からは知る手段がない。国家標準に関して国家間で確固とした校正の契約ができているケースはまれであろう。そのときそのときの事情によりトレーサビリティを確保する先が一定しないことの方が多いかもしれない。
 もし現在議論されている方向で調整がなされるならば、相互承認を得ようとする国はすべて自国の国家標準のトレーサビリティ先を明示することになる。その結果世界のトレーサビリティ体系が関係者に明確に見えてきたとき、その影響は小さくないであろう。信頼性が高い校正を定常的に行っている国がどこかということが見えてくる。信頼性の高い校正が確実な契約のもとに受けられるような国際環境があることが分かれば、一次標準を自分で設定することのコストパフォーマンスを改めて見直す国も出てくるであろう。国際相互承認が進むに連れて標準の「安全保障論」は弱まり、国際トレーサビリティ体系の合理化が進むと考えられる。これが新しいトレーサビリティ制度がもたらす第二のポイントである。
 校正をする立場と、校正を受ける立場の両方から、各国の標準機関は合理的な政策決定を下せるような国際環境が遠からずできあがるであろう。

不確かさ評価における校正主体の責任

 新しいトレーサビリティ制度の第3のポイントは、校正の不確かさを、校正を行う主体が自己の責任で評価することとした点である。従来は、オーソライズされた「しかるべき手順」で校正を行えば、それだけで十分な信頼性が付与されると考えられてきた。しかしながら今日では、「しかるべき手順」で校正を行ったとしてもなお校正の不確かさは存在するし、信頼性は必ずしも十分でないとの考えが主流となっている。
 また「しかるべき手順」といっても世界の国々はさまざまで、それだけでは信頼感はほとんど得られないとの懸念もある。そこで計測あるいは校正に対して科学的に根拠のある不確かさの概念を導入してより確固とした信頼性を付与しようとしている。そのとき重要な点は、不確かさは誰か別の人が評価してくれるわけではなく、校正を行う主体が自らの責任で評価するという原則である。さらに第三者(認定機関)が不確かさ評価の妥当性を審査して信頼感の裏付けを与えようとしている。
 一般に校正は、その不確かさが小さければ小さいほど価値は高い。しかしながら新しいトレーサビリティ制度で重要とされていることはむしろ、校正の主体が不確かさを適切に評価しているかどうかである。認定機関の役割は校正事業者の不確かさの大小を審査するのではなく、校正事業者が表明した不確かさが技術的観点から妥当であるかどうかを審査することにある。国際相互承認はある意味では、それぞれの校正主体が宣言している校正の不確かさに対して信頼感を表明することであるともいえよう。
 このようにして校正を行うものは国立機関であれ民間事業者であれ、高価な設備と高度なスタッフで、小さな不確かさでもって高額の校正手数料を取ってもよいし、逆に安価な設備とそこそこの不確かさでもって廉価な手数料で効率的に校正事業を行ってもよい。いずれを取るかはその国や事業者の戦略と意志、市場ニーズによっている。

トレーサビリティ制度導入のねらい

 校正事業者の認定制度は10数年前からヨーロッパに普及し始めたが、この制度の原型はそれより以前にイギリスで考え出されたといわれている。その当時特にイギリスではEUの経済統合の動きは顕在化してなく、ドイツや日本の工業製品がその品質を誇っていた時期である。従ってイギリスの当初のねらいはむしろ自国の工業製品の品質向上にあったと考えられる。品質管理の高度化のためにISO9000シリーズ規格とともに新しいトレーサビリティ制度を導入し、民間の校正事業者を認定することによって計測の信頼性を全国的に向上させ、その結果イギリスの工業製品の品質向上を目指すという産業技術政策であったと思われる。
 その後EUの経済統合が進んで通商問題としての新たな側面が浮上し、最終的にドイツも同調するに至って新しいトレーサビリティ制度はEUの一貫した通商産業政策として完成度を高めてきた。このようにISO9000シリ−ズ規格や新しいトレーサビリティ制度の背景には通商問題だけでなく、当初は産業技術政策としての問題が潜んでいたと考えられる。この点が新しいトレーサビリティ制度の第4のポイントである。


新たな品質管理の手法

 国際貿易のグローバル化は最終製品だけでなく、部品やコンポーネントレベルで特に活発になっている。いままで日本では企業の系列関係が強く、部品、コンポーネントから最終製品の組み立てまで系列内で一貫して行うことが多かった。そのために部品やコンポーネントの品質管理手法をいち早く開発し、それが国際的な競争力の一つの源泉になったといわれている。しかしながら他方では系列の内部で個別的に発展した品質管理手法は、必ずしも汎用的、普遍的な形を取らなかった。
 一方経済のグローバル化は部品やコンポーネントレベルで広く起こっており、これらの品質確保こそがグローバルな通商での要件となった。この動きの結果、系列内にあった部品、コンポーネントの製造業者が独自性を強め、自らの責任で品質を管理し表明する必要に迫られている。ISO9000シリーズ規格はそのための品質管理システムであり、他方新しいトレーサビリティ制度はそのための計測管理のツールである。新しいトレーサビリティ制度では、そのような独自性を強めた企業が信頼性の高い計測を行うのを容易にしている。必要な精度の校正が必要なときにすばやく、認定校正事業者を通じて得られるような仕組みを提供している。この点が新しいトレーサビリティの第5のポイントである。
 国際同等性は外国から求められるものばかりではない。同等性はそもそも双方向・対等の性格をもっており、こちらが求められるものは、すなわちこちらが求めるものでもある。信頼性を保証された計測器を使うことが外国の顧客や規制当局から求められたとき、国際相互承認したトレーサビリティ制度のもとで認定事業者で受けた計測器の校正が効力を発揮する。同時に日本の企業や規制当局が、外国企業に対して日本のトレサービリティ制度(より広くは日本の基準認証制度)と同等であることを要求するのは当然である。これにより日本の製品の品質管理をより合理的に行うことができるようにもなろう。

科学技術データの信頼性

 これまで通商や産業技術に対して新しいトレーサビリティ制度がもたらすものを述べてきたが、科学技術データの信頼性の向上に対しても新しいトレーサビリティ制度は果実をもたらすと考えられる。この点が新しいトレーサビリティ制度の第6のポイントである。
 科学技術上の数値データは従来から国境を越えた普遍的なものと信じられてきた。計量標準に関していえば1875年にメートル条約が締結されて以来、世界的に統一の原則で動いてきたし、この100年間に計量標準の活動の重心は法定計量から科学計量へと大きく発展し、標準の精度は著しく向上した。現在でも計量標準の高精度化と広範囲化が進んでいる。従って原理的には科学技術データは世界のどの国で取得されても同等のはずである。
 しかしながら現実はそれほど楽観的なものではなく、1960年代におけるアメリカと旧ソ連の間での宇宙開発競争(そしておそらく軍事技術における競争)においてそれが問われることになった。アメリカは初期における宇宙開発の遅れを取り戻すべく理科教育の改革をはじめとした新しい政策を実施したが、米航空宇宙局(NASA)が国立標準局(NBS)と連携してとった手段は全米におけるトレーサビリティ制度の確立であった。宇宙機やロケットの部品・コンポーネントレベルでの品質のわずかな低下が、プロジェクト全体の成功を左右することが強く認識されたのである。得られた結論は、使用するすべての計測器の校正は、NBSの国家標準にしかるべき連鎖でつながっていなければならないというトレーサビリティの概念そのものであった。
 筆者は1980年代のはじめにアメリカの大学で熱物性計測の研究していた頃、研究者たちがしきりに温度計など計測器のNBSトレーサビリティを問題にしていた。計測器の校正精度が明らかでないと測定値の不確かさを評価する根拠が得られないからである。また1990年代から地球環境問題とからんで盛んになってきた宇宙からの地球観測においても、NASAは国立標準技術研究所(NIST,旧NBS)と連携して搭載観測機器の校正に熱心に取り組んでいる。
 一方旧ソ連でも宇宙開発と軍事技術の基礎データを自から取得する必要があったことは、アメリカと同じ状況であった。おびただしい量の熱物性データが旧ソ連の学術論文で発表され、またそれらを集大成た大部のデータブックも発刊された。
 今後日本あるいは世界で熱物性データに限らず科学技術データが収集・評価されるようになるとき、計測器のトレーサビリティはその信頼性に関する一つの重要なポイントとなるべきであろう。計測器の校正が認定校正事業者で確実に行われ、その不確かさが第三者によって確認されているということが科学技術データの信頼性を左右することになろう。一般に科学技術データに要求される精度は、通商で要求される精度よりも高いことが多いから、用いた計測器がどの国のトレーサビリティ制度のもとで校正されたかを明示することにより、データの信頼性を裏付ける有効な手段を提供することができる。国際相互承認の枠組みでは、校正事業者は計測器の校正証明書に、第三者によって認定された不確かさを95%の信頼度で明記することになっている。このことは科学技術データの信頼性向上に大きな役割を果たすであろう。

表 計量標準供給制度の実態


メートル条約加盟国の使命

 国家標準の同等性を表明する仕組みは、現在国際度量衡委員会と地域計量組織のもとで構築されつつある。まもなく枠組みが合意され、国際比較の第一陣の結果が出てくると思われる。その中では各量とその範囲ごとに互いに同等な国家標準が国名と機関名つきで発表される。それらの結果はデータベースに入れられ、インターネットを通して世界中のどこからでも容易にアクセスすることが可能になる。もし相互承認協定に名を連ねていなければ、国際社会から未だ同等とは見なされていないという厳しいものとなるし、名を連ねていれば国際社会から認められたものとなる。
 振り返ってみれば19世紀の後半にメートル条約が締結されてまず行われた事業は、各国間に存在した標準の不統一を解消し、世界共通の標準を設定することであった。メートル条約加盟国の努力は大きいものがあり、計測結果の整合性の確保が世界的なレベルで開始された。次に、1960年代からメートル条約のもとで行われたSI単位の普及事業は、基本量だけでなく日常的にさまざまな分野で使用される量について、単位の統一を図るものであった。国家間に存在する単位の不統一だけでなく、技術分野間に伝統的に存在する単位の不統一を解消しようという意図であった。SI単位の考えは現在世界的に広く受け入れられ、この事業は大きな成功をおさめたといえよう。
 現在国際度量衡委員会を中心としてメートル条約加盟国に課されている課題は、本稿の主題である新しいトレーサビリティ制度確立の事業である。メートル条約の歴史上第三の大きな事業となろうとしている。これは国立標準機関の間の相互承認の問題であると同時に、国立標準機関と標準ユーザとに関わる世界的な問題でもある。国立標準機関は従来のようにその非日常性と権威のゆえに他の世界から一定の距離を置き続けるのか、それとも国際トレーサビリティを世界のユーザに明確に示して、国家計量標準の実態を率直に提示するのか、岐路に立っている。標準の国際社会はすでに後者の方向に大きく踏み出しつつあると思うが、標準ユーザからより深い信頼感を得るために国際トレーサビリティの明示には一層の決断が必要であるように見える。日本も国益を考慮しつつ、メートル条約加盟国の一員として国際トレーサビリティ体系の明示と発展に向けて、しかるべき役割を果たしていかなければならない。
 国家計量標準は非日常的に高精度であり、ともすると社会の関心が薄い。これは日本だけの傾向ではなく、世界のどこの国でも多かれ少なかれ状況は同じであろう。そのような状況の中で各国の標準研究機関は独自性を出して、それぞれの存在を主張している。標準と社会との結びつきという面では、新しいトレーサビリティ制度はまさにその接点に位置する。これに正面から取り組むことにより、日本だけでなく世界的な規模で標準と産業・社会との結びつきが強められると考えている。メートル条約の今後の発展にも大きく関わるであろう。

おわりに

 本稿は計量標準と大多数の一般標準ユーザとの係わりという点に着目してトレーサビリティ制度を中心に述べた。一方トレーサビリティ制度がカバーしていないものとして、特殊な計測器の開発や特別に高精度の校正がある。これらは計量研究所から依頼試験制度や共同研究、技術指導という形で社会にサービスを行っている。これらもまた日本の科学技術と産業の競争力向上に対する重要な国家的支援であることを付記する。
(本面の図は通産省作成のものを使用した〔編集部〕)


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