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日本計量新報 2010年1月1日 (2803号第2部)

諏訪湖畔に立つ
「琵琶湖周航の歌」作詞者の像

 

小口太郎は、1917(大正6)年に三高寮歌「琵琶湖周航の歌」をつくった人である。その一番の歌詞が刻まれた記念碑が、大津市の琵琶湖畔、三保ケ崎の艇庫前に建てられている。一方、長野県岡谷市の諏訪湖の釜口には、同じ小口太郎の立像が立っている。小口は生まれと育ちが諏訪湖なのだ。琵琶湖と諏訪湖では規模こそ違っているが、小口太郎の生まれた諏訪湖畔の旧湊村と三保ケ崎の艇庫前は、形状と構造が似ている。背後の山も似ているし、そこが川につながる出口付近ということもそうである。

「われは湖のこ さすらいの 旅にしあれば しみじみと……」(「琵琶湖周航の歌」)。諏訪生まれの小口太郎が「われは湖の子」と書いたとき、思い描いていたのは琵琶湖のみならず、諏訪湖の姿だったのだろう。「さすらいの旅にしあれば」とは、諏訪から京都に出て修行をしていることになる。「志賀の都よいざさらば」と「はかない恋に泣くとかや」は、後に小口太郎が叶わぬ恋に打ちひしがれたこと、また物理学の研究に没頭するうちに心の病を患って26歳にして自ら死を選んだことを予言するかのようだ。

「琵琶湖周航の歌」は、加藤登紀子がうたって有名になった。小口太郎が作詞をしたのは、第三高等学校の生徒だった頃である。曲は、当時親しまれていた吉田千秋の「ひつじぐさ」を借りている。「琵琶湖周航の歌」は、逗子開成中学校生徒12名が明治43年にボートで事故死した事件をうたった「七里ヶ浜の哀歌」に似た曲調である。この歌は、賛美歌からとられており、「琵琶湖周航の歌」もやはり賛美歌をイメージさせる。親しみやすさは、ここからきている。

(写真と文章は旅行家 甲斐鐵太郎)

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