日本計量新報 2008年5月18日 (2724号)より掲載私の履歴書 鍋島 綾雄 日東イシダ(株)会長、(社)日本計量振興協会顧問、前(社)宮城県計量協会会長 |
目次10 東京の秤屋さん 2737号東京には守谷・守隨・佐藤という戦前の業界を代表する大老舗があったが、どういうわけか戦後はあまり振るわなかった。多分農家を相手に量産する棒ハカリ・台秤は精密を得意とする職人芸的な老舗には合わなかったのだろうか。訪問しても老舗らしい落ち着きは感じられたが、余り覇気は感ぜられなかった。 守谷といえば、守谷の職人から独立して栃木に帰り、百数十人の工場の主となった平田さんの所へよく通った。平田さんは若い時に裸一貫で栃木から草鞋を履いて一人で東京に出て飾り職人になったが、その後守谷に拾われてハカリの職人になったそうである。棒ハカリや天秤の技術は簪(かんざし)などを作る飾り職人の技術から来ているというルーツを教えられて、なるほどと感心したものだった。 不思議なことに台秤・棒ハカリの製造台数では東京は明らかに地方に負けていた。そんな中で伝統も資力もないが数人の職人を使って台秤その他を組み立てる新興勢力が何組かあった。 この人たちは資力がないから問屋で前金を借りてハカリを造り、都庁に持ち込んで検定を受け、検定が終わると全台数をそっくり神田の問屋へ直接持ち込んで現金に換える。即ち問屋資本で回転しているわけだから、彼らは完全に問屋の支配下にあった。神田には野村さん・岩下さん・森貞さん・三友さん等錚々たる問屋が軒を連ねていた。これは東京だけの特異な形態で、大阪にも有力な問屋がたくさんあったがこういう機能は果たしていなかった。 今も覚えているのは野村さんで貰った小切手を神田の富士銀行におろしに行くと一覧払いといって帳簿も見ずにすぐ現金に換えてくれる。当時は勿論電子化なんかされておらず、銀行と雖(いえど)も手書き帳簿時代であった。小切手をおろしに行くと一々帳簿に残があるか確かめてからでないと現金に換えてくれない。確かめるのに時間が掛かるので待たされる。天下の富士銀行はそんなことをせずすぐ小切手を現金に換えてくれる。即ち富士銀行に口座を持つということは大変なステータスで、それだけ信用があるということであり並みのハカリ屋では考えられないことだった。当時としては富士銀行神田支店に当座を持つのは驚異的なことで野村さんの信用力に脱帽したものである。 そうした中で全国の有名メーカーは東京に進出して支店を持っていたが、殆どのメーカーの東京支店は事務所のみで現物の在庫は持たなかった。ところが田中衡機さんだけは、東京のど真ん中に店舗形態の自前の支店を持ちハカリの現物を在庫として持っていた。これは大変な強みで東京の販売店の有力メンバーの殆どが結集して東京田中会を結成していた。 |