日本計量新報 2008年5月18日 (2724号)より掲載私の履歴書 鍋島 綾雄 日東イシダ(株)会長、(社)日本計量振興協会顧問、前(社)宮城県計量協会会長 |
目次13 新天地・仙台へ 2741号毎月の出張先、仙台に日東度量衡という会社があった。この会社は1923(大正12)年に知事の肝いりで県内各地の販売免許事業者200人近くが出資して当時としては珍しく株式会社として発足し、初代社長に宮城県度量衡検定所長の鈴木重雄氏が就任している。 しかし日東度量衡はその由緒ある生い立ちにもかかわらず業績は伸びず低迷の時代が長く続いた。その原因は社内に残っている古い資料から類推できるが、その一つは設立後基礎の固まらないうちに昭和初期の大不況に直面した不幸である。もう一つの原因は業績不振による役員間の意見の不一致で、良く言えば近代的な株式組織だが裏を返せばオーナー不在の寄り合い所帯の中で、役員間の勢力争いが激しく社長は目まぐるしく変わっている。 1945(昭和20)年7月の戦災で会社の建物は殆ど焼けてしまった。東京の永井さんというハカリの材料屋さんが戦前に日東度量衡の過半数の株を買い集めてオーナー社長になっていたが、その永井さんは東京の自宅も工場も戦災に遭い、全財産を失ってしまった。 戦後、永井社長には日東度量衡を復興する気力も無く資力もなかった。月に一度仙台に小遣い程度の報酬を貰いに来る社長では話にならない。 伊藤さんという80才近い常務さんが留守を預かって5〜6人の従業員で細々とハカリの修理をして食いつないでいたが、伊藤さんも脳溢血で倒れて半身不随の体で会社を立て直すのは体力的にも無理だった。1957(昭和32)年に永井さんが亡くなったが、勿論遺族の方は仙台に来る気はなかった。日東の将来を案じていた伊藤さんは、私が「東北の都である仙台で、はかりやとして他県に負けているのはおかしい」と熱心に積極経営を説くものだから「そんなに言うなら鍋島さん、あなたが来てやったら」というような話になっていった。瓢箪から駒の例えがあるが正直びっくりしたというか戸惑った。夢にも考えなかったことだが、誘われてみると私自身の気持ちの中にこの申し出に魅力を感ずる伏線があった。「鶏口となるとも牛後となるなかれ」と教えられて育ったこともあるが、私は「一将功成りて万骨枯る」というような経営ではなくもっと他に理想的な経営があるはずだという永年の思いが頭を離れず、それを実現してみたいという思いがあった。 旅先で仙台行きを決心した私はすぐ手紙で家内に気持ちを伝えた。 有難かったのは家内が未知の不安を乗り越えて仙台行きに積極的に賛成してくれたことだった。今考えてみると生まれ故郷を離れて見知らぬ異郷へ引っ越すことをよく決心してくれたと感謝している。私は父親に無理を言って田圃を担保に農協から金を借りて貰い、更にポン友からも借金し東京の永井さんの遺族から株を譲って貰う資金を用意した。マージャンの思い出のところでも書いたように、Mさんの尽力で永井さんの遺族の方から快く株を譲ってもらうことが出来た。 1959(昭和34)年の10月、34才の私は小学校2年生の長男、幼稚園の次男を連れて親子4人で故郷高松を後にして1200キロの山川を越えて仙台に引越しをした。出発に際してはびっくりするほど大勢の人々が高松桟橋に見送りに来てくれた。電車や汽車と違って、連絡船での100人近い人とテープを交わしての別れは格別感動的なもので、その感激は生涯忘れられない。 お陰で故郷とは縁が切れず80才を超えた今日でも年に1〜2回は高松に帰って旧交を温めている。
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