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日本計量新報 2008年5月18日 (2724号)より掲載

私の履歴書 鍋島 綾雄  

日東イシダ(株)会長、(社)日本計量振興協会顧問、前(社)宮城県計量協会会長

目次

20 宮城県計量協会の理事に 2751号、2752号

 1960(昭和35)年120日、私は日東度量衡の専務取締役となり、同時に前任者から宮城県計量協会の理事の役を引き継いだ。その1年前に県内の製造修理業者25社が計量器工業部会を設立し、青葉製作所(後に金門製作所に吸収される)が部会長、日東度量衡が副部会長になっていた。即ち私は35才で理事と副部会長に就任した訳だが、当時宮城県計量協会では工業部会は影の薄い存在だった。理事の圧倒的多数は薬局・金物屋で販売免許を持った各地区の有力者達だった。理事会に出てみると髯ひげを生やした会長(仙台市の市会議員だった)を始め各地の長老達がずらりと並び、物々しい雰囲気で発言も格式ばったものだった。35才の新米理事には恐れ多くて一言半句も発言出来る雰囲気ではなかった。 

 10年後副会長を、24年後には会長を引き受けることになろうとはその時夢にも思わなかった。

 戦前、宮城の協会の先輩たちはメートル法の普及推進に取り組み、目覚ましい成果を残している。白石と大河原の駅を起点として1kmごとにメートル標語を書いた高さ3メートルの指導標を立て、蔵王山頂には幅30cm高さ4メートル御影石の指導標を運び上げて立てるという壮大な企画であった。

 1930(昭和5)年には500人もの人を動員して総予算2032円(現在の2000万円くらいだろうか)を掛けて大事業を完成させ、蔵王賽さいの河原において盛大な祝賀会(横山商工次官・湯沢知事出席)を開催している。先人達の社会的レベルの高さと、メートル法推進のエネルギーには驚嘆すべきものがある。

 しかし1961(昭和36)年当時の理事さん達は度量衡販売免許時代の販売店で各地区の資産家・有力者で、協会の理事を名誉職と考え協会活動には必ずしも熱心ではなかった。尤も当時の協会の予算は560万円、それも支部長が会費を集めてその2割を支部に交付金としてバックしていた。残りの340万円では協会が何も出来るわけもない。勿論大方の県と同じように専従職員は雇えず、現職の検定所長が事務局長を兼務していた。

 協会は検定所におんぶに抱っこで理事さんたちは飾り物のような存在だった。毎年の協会の総会、7年毎の東北北海道ブロックの大会も総て検定所の主導で行われていた。1961年の松島大会の時は部屋割りまで検定所長自ら割り振り、「鍋島君こちらのいい部屋で一人欠席者が出て一人減ったからこちらへ移れ。」と言われて驚いたことを覚えている。

 協会の事業といえば定期検査会場に支部の会員が交代で参加してお手伝いをし、検定所の許可を得て取緒・錘糸(棒ハカリの検査が多かった)の交換で協会員として何がしかの収入に繋がったことくらいだった。

(つづく)

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