キビタキ |
木漏れ日を キビタキの歌 抜けてゆく 虚心
松本から美ヶ原の高原に登って見る北アルプスのパノラマは何とも言い難い。満喫すべきはずの遠望も美ヶ原に車道が通じてしまいますと感動は割り引かれてしまいます。
5月の初旬に美ヶ原を越して蓼科山麓に足を運びました。美ヶ原から霧ヶ峰に抜ける悪名高いビーナスラインは一部を残して無料になりました。八ヶ岳の清里高原を走る八巻道路も料金所が取り払われました。うれしいことです。
蓼科山麓では「望岳山荘」と気の張った名前を付けた山中間の別荘にもぐり込みました。ここの地下の物置に趣味の自転車を8台置かせてもらっているのです。使うならどうぞ、ということにしておりますので、友人はそのうちの1台を持ち出して、都内某所の体育館に停めておきましたら、しげしげと眺める者が居たそうです。「××社のオーダーメイドのサイクリング車ですね。素晴らしいフレームのまとまりで、フランス製のオールドパーツを使っていてうらやましい」とお世辞を述べたといいます。山荘の自転車はわずかにホコリをかぶり、塗装がこすれてはげたところにサビが少し出ているものの、新車のときの状態を保っていました。この自転車たちとは4年ぶりに再会です。ここはよく計画された別荘地だけあって区画の外から建物は見えません。周囲の自然と調和していて、別荘地全体は林にしか見えないのです。
南面に突き出した木製のテラスの前に生えているタラの芽はもうすっかり伸びていて食べられません。楽しみは削がれましたが、ウドとセリとアケビの芽を少し摘んで肴にします。酒は辛口のをと注文して買ってきた4合ビンです。泣けてきます一人で飲む酒は。しみじみではなく、ジメジメと飲んでいる酒ですから。
山荘に泊まって雨戸を閉め切りますと朝一番の野鳥のコーラスは聴き逃します。このときもそうでした。それでもと義務と思っているので、午前6時にのこのこと戸外に出るのです。
連れてきた柴犬のミーちゃんは私が起き出す気配を察してゴソゴソ動いて散歩を催促します。5月初旬の新緑の高原の朝は少し肌寒さが残りますが、酒気の残る頬には丁度よいのです。木立のなかから聴こえてくるのはシジュウカラ、ヒガラ、コガラなどのカラの仲間の啼き声です。私はどうしたことかヤマガラとは縁が薄いのです。
晴れた朝です。新緑がまぶしい大きな灌木のなかから美しい声が聴こえてきます。コロ・チュイン・ヒィ・ツク・ホーホ・シー・チュと聴こえます。とっさには啼き声の主がわかりません。啼き声の付近でギッという声がしたと同時に2羽のキビタキが飛び出してきました。オスが追い駆けっこです。執拗に1羽が追いかけ回します。これがさえずりの主だったのでしょう。連れの柴犬メスのミーちゃんと草地に腰を下ろしてしばし休憩です。のどかであると思いました。
キビタキは5月初旬の蓼科山麓にきていたのです。渡ってきた当初は平地にいるのですが、春が進んで夏に足を掛けるころには高原に移動します。5月初旬の蓼科山麓の野鳥の主役はキビタキでした。キビタキはヒタキの仲間で、ヒタキは古くは火焼鳥(ひたきどり)と言われており、火打ち石を打つときの音に似たヒッ・ヒッという声が地啼きです。さえずりは複雑な旋律で込み入っています。他の野鳥の声音もするので姿を確認するまでキビタキと決めつけるのはためらわれます。さえずりは明るく、その全体は下手な音楽よりはるかに上等なものです。リズムの刻み方メロディーの取り方をキビタキのさえずりから学ぶと、とてもいい音楽が作れそうです。もう誰かがしているかも知れません。
人の踊りは動物や鳥の動作から取り入れたもののように思われますが、モーツァルトの音楽の根底には野鳥のさえずり、小川のせせらぎ、梢を渡る風の音と類似のものがあるのでしょうか。ある揺らぎは人の心に上手く作用をして安らぎをもたらすということがわかっています。キビタキのメスはウグイスのような色調ですが、オスは黒い紋付き姿で腰部の黄色が目立ちます。白いまゆが引かれており、胸部がオレンジということです。飛んだりして動いているときには黒い紋付きに腰部の黄色の印象が鮮明です。
もともと生来横着者の私は朝が苦手です。寝起きでぱっと外に飛び出すのは嫌いです。飼い犬が朝の散歩をねだってもおいそれとは了解しません。そんなことで蓼科山麓で休日を過ごした1週間後には標高1900mの大菩薩峠に足を運びました。野鳥をたずねるためです。夕方4時に登り始めたのです。朝まずめの野鳥の声を聴くほどの精進をしない代わりに、夕まずめの声に預かろうというものです。土曜日の昼過ぎまで野暮な用事に追われたあとの自由です。
霧の立ち込めた峠近くにまでいくとコロ・コロ・フィ・フィという野鳥の声がします。何の声だろうと戸惑っていましたが、双眼鏡に映ったのはキビタキでした。キビタキは他の鳥の鳴き声を真似るので、野鳥好きを悩ませます。大菩薩峠の一帯もキビタキの王国でした。
峠の山小屋の介山壮には宿泊の登山者しかおりませんでした。山荘の主人が設置した鳥寄せ台にコガラがきておりました。小屋のおばさんが教えてくれたのです。コガラは慣れたもので人の手からも餌を啄(ついば)みます。この前きたときに居たのはヒガラでした。一杯気分の熟年登山者がフラフラと外に出てきて霧に包まれた山の冷気に当たっていました。夕食前のひとときです。私はアサヒスーパードライとコンニャクのおでんでほてった身体を鎮めます。この小休止で帰途につきます。
登りのときに笹藪でゴソゴソと音がしていました。熊かイノシシだと困るので、「誰だ」と叫ぶのですが返事はありません。帰りには藪のなかに鹿がいるのを見ました。後ろ姿でしたが、座布団のようなお尻の白い毛が目立ちます。人影が消えた山道でキビタキはまだコロ・コロ・フィ・フィと不十分なさえずりを聴かせています。「もったいないもういいよ」と言ってやりました。
鹿は暮れなずむ山道に2頭でもう一度でてきました。角は付けていません。その目を見てつぶらとは鹿の目のことを言うのだろうと思いました。しばし鹿と対面しておりました。車道に降りて車を走らせるのですが、この道は全部私のものです。もう車には出合いません。キセキレイが道に出てきてホグランプを点けた車の前を5m間隔で飛び退きながらおいでおいでをします。沿道の木立からはアカハラに似た鳥が飛び立ちますがとっさのことで特定できないのが残念です。アオジの姿は頻繁に見ることができました。もう夏になるのだと実感します。
国道20号の笹子トンネルを抜けて造り酒屋の「笹一」の横を通るときには外はとっぷりと暮れておりました。
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