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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)
中検は夜学通いを奨励
月給貰いながら物理学校へ
この4月から飯田橋の東京物理学校にも通い始めましたし、親戚にいつまでも迷惑を掛けていられませんので、石沢さんの世話で千駄ヶ谷の石沢さんと同じ家に下宿する ことになりました。東京物理学校への入学は、無試験で、戸籍謄本があれば高等師範科に行かれますが、無いと本科で私は本科でした。これは、早くから父親に戸籍謄本を頼んでいたのですが、出願期限までに届かなかったためでした。
月給45円、授業料8円
千駄ヶ谷での下宿代は 朝、夕の2食ついた4畳半で月33円、月給が45円、物理学校の授業料が8円、これで、飢えもせずに生活できたのは、ボーナスと出張旅費とのお陰でしょう。下宿に移った当座南京虫に悩まされたのには閉口しました。この下宿には入所直後に配属された量衡器係の職員で、この時は退職していた東山利一さんが時折訪ねてきていました。中検 には短い期間しか勤めていなかったようでしたが、彼は右翼の大物影山正治氏に心酔していて影山塾にも入っていたようで、終戦の日に宮城前で割腹してしまいました。下宿から新宿までは歩いても直ぐで、時間を作っては遊びに行っていました。
東京物理学校の夜学
1943年4月には艦載機による東京初の空襲がありましたが庶務室の 窓から見ていた事が思い出されます。物理学校では夜学の1年生が2500人で1組500人、さすがの大部屋も遅く行けば座るところもなく先生の声も聞こえませんでした。
しかし物理や数学は計量教習での講義の復習が多く、1年の時の出席は半分くらいでした。6月になった頃、石沢さんのお姉さんが伊豆大島のため朝館におられ、大越さんと遊びに行くのに無理にご一緒をお願いし、下 駄で三原山に登り、途中で下駄が半分に割れ往生したのを思い出します。石沢さんは私を連れて行くのに反対で、物理学校は試験が大変だから、大島などへ行っていては駄目だとのことでした。このとき、いま大島に帰られた白井岩一さんのお母さんにお目にかかった様に思います。