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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)                 

戦時色が強まる中で

 

 

 

原器を地磁気観測所に疎開

 この年の9月、空襲による焼失を防ぐためメートル原器とキログラム原器とを茨城県の柿岡地磁気観測所に疎開しています。この時の責任者は米田麟吉さんと佐藤朗さんでした。11月には貴金属の供出が強制されメートル副原器とキログラム副原器とが海軍省に移管されています。これらの副原器は1946年5月中検に戻りましたが、後GHQの命令で1947年4月韓国に輸出されました。

 11月になった雪の降る日に空襲があり、1年ほど厄介になった神田美土代町の蓑輪甲子三氏宅が焼けました。年が明けた1945年早々には物理学校では後期の試験も終わり、3年の授業が始まっていました。窓ガラスが割れても入れることができず、オーバーにくるまって授業を聞いていました。

宿直日に3月大空襲

 3月10日未明の大空襲は宿直の当番日で木挽町の庁舎に居ましたが、東京最初の大空襲でもあり非常に驚きました。庁舎付近に被害はありませんでしたが下町方面の火は天を焦がし庁舎内で新聞が読めるほどで、門の前にきた憲兵は関東大地震よりも酷いと話していました。数日後、計量研から神奈川県に移った宮里勇さんが火傷され、父親に背負われて中検に見えられたのを思い出します。

5月の空襲でも当番

 この後横浜、東京などの空襲日には岡田さんを長とする私達の宿直当番の日が多く、5月25日未明の新宿、四谷、銀座等が被害を受けた時も当番の日で、玄関前で莚を天水桶に浸していた時、突然と電車の近づくような音が聞こえた途端、皆で玄関の中に飛び込みました。直後、焼夷弾が落ちて玄関前にあったダットサンは火達磨になってしまいました。

 B29の高度は3500メートル程で中検敷地内にも多数の焼夷弾が落下し屋上などは火の海でした。この時の焼夷弾はエレクトロン焼夷弾と油脂焼夷弾でしたが屋上などは燃えるに任せ、B29の高度が低かったため窓を破って庁舎内に落ちた焼夷弾数発を消して回りました。

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