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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)
戦時色が強まる中で
図書室の文献を消失
吹き抜けの中庭をはじめ殆ど消しましたが、2階の図書室のみ発見が遅れ、濛々とした煙の中、中谷さんなどが防毒マスクをつけて消火に努めましたが、貴重な書籍、文献を失ったことは残念なことでした。この時の宿泊者は岡田嘉信さんを長とした安並博さん、庄司行義さん、中谷昇弘さん、大島頼年さん、野崎平さん、多賀谷宏さんと私だったように思います。
戦争が終わっていたこの年の12月渡辺所長から金一封を頂きました。中検の隣に立っていた工業品検査所の建物は軍需省の倉庫になっていましたが、私たちが庁内の焼夷弾を消して一息ついた頃に3階から火の手が上がりましたが、宿直者も居なかったようですし、鍵も探しようが無く消すことも出来ず燃えるに任せてしまいました。
空襲で天野清さんらが亡くなる
岡田さんといえば、この頃食用蛙(蛙)を釣ってきて料理するのを趣味のようにしていて、岡田さんの手料理で食用蛙を食べた職員も大勢いた筈です。
この日柏木の下宿も焼け、学校の寄宿舎に入るまでとして、直ぐ下の弟昭二がその下宿に宿泊していた時のことで近くに焼夷弾が落ちたりしたものの、淀橋浄水場付近に逃げたりした後、弟は昼少し前に木挽町の庁舎まで歩いてきました。午後、今度は弟と一緒に焼野原と化した四谷を抜け柏木の下宿まで行き、防空壕に入っていた弟の寝具を2人で担ぎ、電車が通っていた御茶ノ水まで歩き夜遅く佐原の家までたどり着きました。
この後、弟は東京に出ることを諦め税務署に就職してしまいました。中検に就職してからの計量教習のノート、物理学校での教科書、ノート、やっと買った参考書など、総てが烏有(うゆう)に帰してしまいました。
これより前、4月の空襲で工業大学に移られた天野さんが焼夷弾の直撃をうけ亡くなられたのを聞いたのも、所員の矢島昭子さんが火傷して入院した後亡くなり、牛込に住んでいた谷川さんが焼け出されていて、住む所も無いため、計圧器係の部屋に泊まり始めたのもこの頃のことです。
空襲後は検定の仕事はなくなる
5月25日に焼け出された私も計圧器係の部屋に組み立て式のベッドを持ち込み、谷川さんと一緒に寝泊りするはめになってしまいました。学校に行っているときと出張に行っている時を除いて、朝から晩まで谷川さんと一緒でしたが、息のつまる事もなく昔話を聞きながら仲良く生活していました。この頃は最早検定の仕事も殆ど無くなり、学校の勉強をするか、焼け跡を散歩することが日課になっていました。谷川さんは新橋演舞場の裏でハゼを釣ったりして夕食の菜の足しにしていました。