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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)
戦後復興と中検の再建
玉音放送は佐原で聞く
8月15日は月遅れのお盆でもあり、私は佐原に帰省していて正午の天皇陛下のラジオ放送を聞きましたが殆ど聞き取れませんでした。ただ戦争に負けたことだけは分かり、緊張感が脱落、ホッとしたと同時に無力感が襲ってきたことが思い出されます。
1942年4月から勤め始め1945年までの3年間、中学校を卒業したばかり17才の若者が大戦争に押し流されながら、出征する人を見送り、戦死者の遺骨を迎え、何れは自分もその中にはいることを当然のこととして、死ぬことさえ怖がることなしに、極めて微小な歯車の一つとして仕事をし、夜学にも通う、私の後から中検に入所してきた中学卒の人たちも、高等小学卒の人たちも仕事をし、夜学に通っていました。食べ物さえもママならないそんな時でしたので、却って学校にも通っていたのかもしれません。
東京物理学校を卒業
戦争に負けて呆然とした中でも、学校にも行き、少なくなった仕事を処理していましたが、アメリカ軍の進駐による治安不安が取り沙汰され、止むを得ない数人を除いて総ての女子職員が退職しました。私は9月末東京物理学校を卒業することになりましたが、卒業式もなく卒業証書も藁半紙四半分のガリ版ずりで、大河内正敏校長の名と学校印が押してあるものでした。
中検に残ることに
東京物理学校の卒業は、一つの大きな区切りともなり、転機にもなる筈でしたが、軍隊も無くなり、産業も細々、新天地を切り開く度胸も無いまま安易な道を選んでいました。
焼野原になった東京にも電気がつくようになりましたが、工場などは、いまだ操業出来ず極端に少なくなった検定業務と設備の手入れに明け暮れていました。