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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)
戦後復興と中検の再建
渡辺襄所長から的場鞆哉所長に
1941年、42年には1000万個にも達していた検定個数もこの年には僅か120万個と激減しています。年末には渡辺襄所長の挨拶がありましたが、翌1946年3月には1933年以来の渡辺所長が退職し、前年の1945年福岡支所長から糸雅俊三氏の後任として大阪支所長になっていた的場鞆哉さんが本所長として赴任してこられました。的場さんの後任には本所から米田麟吉技師が単身赴任し、1953年まで支所長を勤めています。
本所長の交代は突然のことだったらしく、官吏に対するGHQの指示とか、年齢のためとか種々の噂が立ったものです。的場さんも焼野原の東京では住む家も直ぐ見つかる筈もなく、しばらくは所長室に寝泊りしていました。この頃になって検定室に寝泊りしているのは如何にも不様なので、本館4階南側に宿泊室と呼ぶものが作られました。所長室に寝泊りしている的場さんを除いて4階には谷川さん、飯島肇さん、野崎平さんと私が泊まっていたように思います。ガラス温度計、浮ひょうの権威であった的場所長とは殆ど没交渉でしたが、後に浮ひょうの研究に従事することが分っていたら、随分と教えて頂くことがあった事でしょう。
佐原から木挽町に通う
この頃の私は、下宿が焼けて以来住所を佐原に移していたため、原則的には佐原からの通勤で、週に1、2度佐原に帰っていました。朝5時に家を出て、夜11時に帰るのでは、とても続きませんので、1週間分の食糧を持って、中検に泊り込む日が多くなりました。月曜日の朝一番早い佐原発の汽車に乗る連中は、東京の学校に通う人、勤めに行く人などで、中学の先輩、友人も多くなり、両国駅まで退屈もしませんでした。
駐留軍が銀座を闊歩してはいましたが、治安もそれ程悪くならず、渡辺所長が代わる頃になると女子職員の採用も始まり、中検の中も様変わりし、女子職員との垣根も無くなり自由さの謳歌にもなり始めました。
軍隊に入隊、徴兵されていた職員もボツボツ復職し始め、同じ4階の北側、いわゆる度量衡講習室を宿舎として使うことになりました。前の南側の部屋には畳が30畳ほど敷いてありましたが、講習室では机の上や教壇の上に布団を敷いて寝ていました。
作れば売れる時代に
1946年になると今まで極端に少なかった度量衡器、計量器の生産も次第に上向き、作れば売れる時代に突入することになります。検定数もうなぎのぼりで残業手当も不足している中、忙しい毎日が続くことになりました。
この頃の計圧器係は、谷川さんの下、軍隊から帰った堀越義国さん、川村竹一さん、そして茂木一雄さんなど10人を超える係員になっていました。所内における検定数は、設備の関係でその消化量は限られ、需要に追いつけない状況になってきましたので、圧力計の生産量が多く、検定設備の整えられる(株)東京計器製作所の茅ヶ崎工場、小諸工場と川崎の東京機器工業(株)(トキコ)の3ヶ所で谷川さんが設備検査をした後出張検定をすることになり、漸く愁眉を開きました。