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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)                 

戦後自由思想と中検の組合活動

 

 

 

計圧器係長の辞令

 1949年6月的場所長が退任し工業技術庁標準部長の横山不学氏が所長に就任しましたが、建築専攻のしかも外部からの所長は初めてのことで、工業技術庁内の権力争いとか、一時的な腰掛とか、所長人事の絡みとかの噂が飛び交いました。総務部長の席にあった玉野さんが実権を握っていたようですが、9月、突然と所長室に呼ばれ、玉野さん同席の下高橋照二さんに量衡器係長の、私に計圧器係長の辞令が渡されました。何も知らされていなかったので、びっくりしたと言うのが実感でした。

 この時高橋さんが25才、私が24才で最も若い係長でした。この時計圧器係の係員は、渡辺修一さん、高橋政雄さん、伊勢善一さん、岩田成敏さん、関口浄一さん、園田さん、田畑さん等で、少し後に小杉茂さんが配属されてきました。

中村芳子と結婚

 次の年の初め中村芳子と結婚し市川市に住み始めました。はじめ、中村家の「離れ家」が空くことになっていたのですが、住んでいる人が出ないため暫くは同居になりました。ここは借地、借家でしたが敷地は1500平方メートル程でその中に900平方メートル程の池があり、池の半分ほどを睡蓮が覆っていました。

 その年の9月末に長女恵子が生まれました。芳子の父中村金蔵氏は土木、建築を業とし、吊り梯子、掘削工法などの特許を持っていたことから、鹿島建設の仕事につきはじめ石油タンク建設に従事していました。

 間もなく義父は、真間川際に土地を求めて家を建てて移りましたので、池のある広い借家は私たちが引き継ぐことになりました。この池のある家については、竹やぶから筍が出たり、池には鯉や鮒、手長えびなどがいたり、2メートルにも及ぶ青大将が出たり、長女恵子が通っていた幼稚園から睡蓮を見学に来たり、この家から引っ越す間際には1メートルを越す雷魚を釣り上げ、谷川さんに持っていったり思い出は尽きない数年でした。

 家主から退去の要求が出ていたこともあって、菅野の京成分譲地約142平方メートルの土地に約40平方メートルほどの家を、義父に建てて貰い移り住んだのが1955年頃でした。

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