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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)                 

度量衡法改正から環境計測の取り込みまで

 

 

 

圧力計検則の原案作成

 計量法施行に向けての政省令審議は急ピッチで進められ所長室は毎晩遅くまで電気がついていました。私も時々ガスメータ、水道メータの検定規則の審議に出席させられましたが、そのとき米田さんも大阪から上京審議に参加していたこともありました。度量衡器等の審議が終了し、私の担当する計圧器即ち圧力計、真空計と連成計について、検定規則の原案作成後の逐条審議が始まったのは1951年の12月に入ってからのことでした。これより先本省の佐藤義身さん、圧力担当の山崎さんたちと圧力計製作者を見学して歩いたことがありましたが、帰りは必ずといってよいくらい麻雀を付き合わされて帰りが遅くなっていました。原案作成のために業界との意見交換や、説明などで虎ノ門の日本度量協会に何回か行きました。重台安蔵さん、本宮大介さん、佐藤次郎さんたちがその世話に奔走していたことが思い出されます。度量衡協会との親睦を図るため、協会と中検との対抗囲碁会が開かれ、習いたての私も9級で参加しました。

高田忠さんの時間感覚

 原案を作るにあたって一番頭を悩ましたのは、この頃になってもブルドン管の材質が悪く、最高圧力での30分間の耐圧試験で不合格になるものが多く、耐圧時間を延ばせばのばすにつれて不合格が増えるのでした。耐圧時間を延ばせば処理能力が極端に悪くなりますが、品質が悪くなるのも耐えられません。

 そんな中で、計圧器検定規則の逐条審議が行われました。谷川さんの口癖であった計圧器の規則は3条という話が耳についています。条文は少ないほうがと、はじめは少ない条文で案を出しましたが、検定心得以上の細かさを要求され随分抵抗しても、蟷螂の斧、検定官の裁量をなくすと言う理屈の下で空抵抗に終ってしまいました。

 会議に対する高田さんたちの時間感覚が中検の人達とは異なり、審議は夕方から始まり夜中にわたる日が連日続くことになりました。昼は普通に勤め、訂正を考えて夕方からの会議に出席する日が1週間ほど続きました。家内の親から顔色が悪いが、と言われたのもこのときでした。

 記憶が定かではありませんが、この頃でしたか本館4階に工業会の事務所が置かれていたことがありました。電話が引けず別館1階の受付係の電話を利用することになっていましたが、4階と1階で随分大変だったようでした。時には計圧器係の電話を使って貰った事もありました。

所内野球部等ができる

 戦争が終ってからそれまで出来なかったいろいろな娯楽が、一つ一つ復活してきましたが、なんと言ってもお金のかからないもの即ち、囲碁、麻雀、パチンコ、映画などと、野球、卓球、テニスそしてバレーボールのスポーツでした。

 身体に自信が有った私はそれこそ何から何まで首を突っ込んでいました。終戦直後から麻雀全盛で、宿直室はいつでも満員でした。食べ物が不自由な時でしたが、スポーツも始まり、野球は、高橋照二さんが熱心で最初の頃のメンバーは高橋、川村、白藤、坂本、福島、岩城、蓑輪などで打順も守備位置も適当で、やっと9人が集まるほどでしたが、間もなく森光雄さん、南田郁夫さん、天野重昭さん、松沢斎さん、吉田恒雄さん、坂倉知巳さん等が加わりチームの体裁も整いました。

 卓球は沓澤寛さん、岩城七郎さんに私が加わる程度でしたが、卓球台があったことや、手軽に出来たことで若い人たちがどんどん加わるようになってきました。テニスは宮尾さんと一緒に発足させましたが、野球のグランドと同じで、コートの確保が困難でした。この頃になると各部とも人も多くなり、工業技術院の大会、親善試合と土曜、日曜日が益々忙しくなっていました。

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