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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)
度量衡法改正から環境計測の取り込みまで
計量研究所の名称に
当時、先進国に追いつくことが一つの大きな目的でもあり、アメリカのNBS、イギリスのNPL、ドイツのPTBを目標に研究所への衣替えが計画されていました。1953年になると機械試験所から朝永良夫さん以下山本健太郎さん、桜井好正さん、鎌田正久さん、遠藤大海さん他の方々が計量研(中央度量衡検定所は1952年中央計量検定所に、1961年計量研究所に名称が変わりましたのでここからは計量研と略称します)に移ってこられ研究所としての出発が始まりました。この年9月に3部制になり初めて第1部を研究部として5つの研究室が出来、朝永良夫部長が誕生しました。私は第2部長の米田麟吉さんを室長とする第4研究室に配属されましたが、温度を主体とするこの研究室に、密度研究が加えられました。このとき保科さんが長さの研究室に移られ、代わりに河崎禎さんが私の相棒になりました。研究室は本館4階の化学実験室を使うことになりました。化学実験室は特に専用者が居なかったようですが、基礎的な化学実験の用具と、ドイツ、メルク社の試薬がたくさんありました。化学実験室なので試薬を入れる戸棚と、部屋の真中に流し二つをつけた大きな化学実験台、それに排気口をつけた鉛張りのブロアー室のある窓の高い小さな部屋でした。
第4研究室が発足して直ぐの頃、温度研究室で使用する気圧計の水銀密度の測定と、純度の検討をすることになり、水銀の蒸留とピクノメーターによる測定を行いました。水銀の蒸留は、はじめ硬質ガラスで作った簡単な蒸留器で、水銀の入ったフラスコをサンドバスで熱して行いましたが、フラスコを洗浄するたびに砂の中に水銀が落ち、蒸留している間水銀蒸気が大分出ていたと思いますが、気にもしませんでした。有機水銀による公害問題が発生したのは少し後のことだったように思います。水銀の密度測定はピクノメーターによる測定の確かさの検討にもなり、有意義だったようにも思いました。
標準密度浮ひょうの校正
標準密度浮ひょうは0.6g/立方センチメートル〜2.0g/立方センチメートルの範囲を24本に分けられ、0.01g/立方センチメートル毎に器差の測定を行う為、測定点は166ヶ所にも及び、温度を一定にする為の時間が必要なため、1日2点位しか測定できず2年間ほどは毎日この測定に明け暮れていました。研究室が発足して間もなく所内月例研究発表会が始まり、その最初の発表を表面張力の変化による浮ひょうの示度の変化と標準密度浮ひょうの校正について、発表を行ったように思っています。
計量技術ハンドブック
1954年に1903年創立の中央度量衡検定所50周年記念式典が愛知揆一通商産業大臣を迎えて行われましたが、所内公開にのみに参加したように思います。ただ、記念事業の一環として50年史の編纂と計量技術ハンドブックの執筆があり、密度関係の古い研究や液体の密度測定を勉強させられました。
1955年5月、東京晴海で開かれていた国際見本市を見学していた時のこと、拡声器からの呼び出しがあり案内所まで出向きましたが、呼び出しはしていないとの事、はて面妖と、見学を打ち切り家に帰ってみると、祖母死亡の通知がきましたが、こんな経験は後にも先にもこれ一回だけでした。祖父はすでに長女が生まれた翌年の1950年1月に亡くなっていました。