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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)
度量衡法改正から環境計測の取り込みまで
メートル法専用の法律が成立
計量研が板橋への移転を行っていた1958 年、密度標準設定の研究も一段落し、エチルアルコールの研究に入る前でしたので、東京大学の理工学部化学科に1年間、工業技術院からの聴講生として通わせていただきました。この年メートル法専用に係る法律が成立、翌年4月1日施行になりました。この時計量器に付いている非メートル系目盛を抹消することになったようで、台はかり等の目盛をグラインダーで削ったとか、抹消専用機が出来たとか話題になっていました。そんなにまでして、との意見も聞かれましたが、それまでのメートル法化への取り組みと、思い入れの結果だったのでしょう。
1959年の伊勢湾台風のとき、たまたま計量研分会の委員長をしていたようで、全商工で救援物資等を集めたことがあり、計量研でも寄付を募りいろいろのものが集まりました。その一部を選び名古屋支所に送り、その後見舞いに名古屋支所を訪ねたことが思い出されます。
国際アルコール表
計量研が板橋に移って間もなく小泉さんが第3部に移り東京大学から大山勲さんが第2部第2課長として就任され、また質量研究室に地球物理学を専攻した三宅史さんが配属されてきました。研究的雰囲気は高まってきて、課内での輪講や、三宅さんによる結晶学の講義が始まったのもこの頃でした。私たちの密度研究室では純エチルアルコールの密度を確定するための測定を繰り返していました。また、濃度を確定したアルコールと水とを混合し、混合液の密度を測定する作業に明け暮れていました。温度範囲は、はじめ15℃〜30℃とし質量百分率と密度との関係を多項式で表すこととしていましたが、最終的にはマイナス20℃まで広げました。1963年から密度研究室に配属された稲松照子さんを含めて0%から100%までを多項式にあてはめました。この計算には矢野宏さんの研究室に居た後藤充夫さんに協力してもらいました。この結果は国際的に認知された国際アルコール表を作成した時の基礎資料として採用されています。この研究が終わったのは1970 年でした。ビール、日本酒をはじめ色々の酒類を買って、凍らせたり、蒸留したりして実験をしていましたが、特別な結果は出ませんでした。
この頃だったでしょうか、とんでもない失敗をしています。蒸留水は常に作っていましたが、ある日、冷却水のバルブを閉め忘れて、そのまま帰ってしまったところ、床に水があふれ、3階の部屋を通り抜けて所長室を水浸しにしてしまいました。このときの所長は玉野さん、所長は勿論、総務、企画を謝って回りました。そもそも4階の実験室は床排水があり、普通ならば排水溝に流れる筈でしたが排水溝が高かったため、暖房のパイプを伝わって所長室に流れ込んだものでした。所長室のPタイルは張り替えることになったはずです。第2代の渡辺襄所長ではありませんので、雷は落ちませんでしたが、頭を下げて回りました。
2度目の家を建てる
京成の分譲地で土地の面積142平方メートルの所に43平方メートルの家を建てていましたが、子供も次第に大きくなってきたので30平方メートル程の部屋を建て増しをしました。ところが間もなく南側の家が総二階にするとして工事を始めました。我が家を建て増すとき総二階にはしないとのことでしたが、これでは小さな庭にも日当たりが悪くなることは目に見えていますし、子供もかわいそうです。直ぐに引っ越すことに決め、土地探しから始めて、市川駅からは少し遠くなりますが、今の所に少し大きめな土地を購入し家を建てました。
その頃はまだ直ぐ南側は田圃で、夏の夜などは蛙の声が喧しいほどでした。市川駅まではバスが走っていましたが、道路が悪く座席から飛び出すほどでした。今はすっかり家が建ち、学校が幾つか出来、バスもラッシュ時には3、4分おきに走るようになり、ここのバス路線はドル箱路線と言われる様になっています。