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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)                 

度量衡法改正から環境計測の取り込みまで

 

 

 

第4部第2課長に就任(2)

 この前後でしたか福岡支所長として岡本暘之助さんが赴任されました。第3部長は川田裕郎さん、流体計測課には密度、湿度研究室、倉瀬公男さんの粘度研究室、小宮勤一さんの流量研究室がありましたが、部長は流量、粘度の専門家、室長は優秀、私などがとやかく指示する必要もなく、専ら密度、湿度研究室でエチルアルコールの濃度と比重についての総合的なまとめをしていました。

 LPG用密度浮ひょうの校正方法については、1気圧の下での検査結果が、10気圧までの気圧変化に対する浮ひょうの体積変化による影響を実験、検証したり、恒湿発生装置の確認測定などに従事していました。

水の密度の測定

 研究室の研究テーマとして水の密度が話題になりはじめたのもこの頃のことでした。水はメートル法の最初、最大密度の10cm立方の質量を1kgとするなど、また物性定数としても重要な位置を占めていますが、その測定値は1910年頃のもので、計量研では或る温度付近で不連続性も指摘されるようになっていた事から、密度研究室のこれからの重要テーマは水の密度の測定とし、準備に入り始めました。密度、湿度研究室に仙田修さん、渡辺英雄さんなどが配属になったのもこの頃でした。同位元素の問題などの検討から研究が始められていきました。 

計量法の環境測定のキッカケ

 1971年になると公害問題が世に喧伝されるようになり、規制についての議論が始まりました。公害問題が起きて、測定に関する講習会も多くなり、その講師として川田さん、河崎さんなどと分担して、(社)計量管理協会や(社)日本計量士会の講習会に行っていました。この少し後のことだと思いますが、政府委員の補助として衆議院の商工委員会に出席したとき、科学技術庁の研究所で行った公害測定値が改ざんされたと言う問題が議論され、それが計量法に環境測定器などが取り入れられるキッカケだったのかもしれません。

 公害、環境については、3部の流体計測課が化学分野にもっとも近かったためか、なんとなく担当するようになっていました。計量行政審議会に2つの公害関係専門部会を発足させ標準物質と測定器の検討に入りましたが、常に事務局側の委員として検定検査規則の原案作成などにかかわりました。計量法は、今まで物理、工学面を主に対応してきたものを、化学にまで広げるには、メートル原器やキログラム原器などに比べ、使えば失くなる標準物質との整合などがありました。この仕事は1974年の計量法改正まで続き、検定方法などの委員会にはいつも出席していました。

研究所筑波に移転

 この頃になると、工業技術院の研究所を筑波に移転する案の具体化がはじまり、計量研内でも賛否両論、喧々諤々の議論が沸騰しました。特に型式承認、検定、基準器検査を担当する第4部は検定、検査申請人の便宜と、計量標準は、何時でも、何処でも、誰でも、必要に応じて手軽に得られる事が必要として分室として東京に残すべきもの、と運動、本省にも働きかけをする事態になっていました。組合運動にも連動させたこの運動も、なかなか実を結ぶ結果の先行きが見えず、計量研自身の意思もなかなかまとまる様子が見えませんでしたが、1、2、3部の研究部の人達には、この問題についての関心は極めて薄かったよう思えました。この運動は、移転後に於ける計量研の弱体化、採算性などを重視する工業技術院や計量研幹部の意見と相容れず、多くの困難性がありました。
   

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