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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)
計量研究所第4部長時代のこと
姫野瑛一課長の計量法大改正構想(2)
諮問の中で一つの大きな検討課題としていた抜取検査問題は私が委員長になって検討が行われる予定でしたが、委員会を開くことなく、抜取検査は計量法に馴染まないとして没になりました。
また、計量士の中に、環境に係る者を追加することになった時には、環境関係を含めて4種、あるいは環境以外を4種にするなど幾つかの案があり検討されましたが、業務の関係で結局は環境と一般の2種になりました。環境関係を計量法へ取り入れた規則改正は1974年に行われています。計量行政審議会に設置されていた検定検査部会をはじめとする幾つかの部会が開催されるたびに、出席していたものですが、記憶は薄くなっています。
内村俊一計量課長
計量課長が姫野さんから内村俊一さんに代わると、計量法改正も方針が変わり作業も終息の方向に向かい、法律改正は行わず政省令の改正のみに限られたかと思います。それまでは計量法大改正に随分と振り回され、時間も費やしました。法律改正が如何に大変なことかは判っていたつもりですが、漸く実感として理解したのはこの頃からでしょうか。
当時は基本単位の定義は法律事項で例えば、メートルの定義が変更になり、訂正することになると、定義だけの議論ではなく、計量法全般が対象になり、やれタクシーのメーターがどうの、量目がどうのなど、他のことまで検討、整備しなければならなくなるのです。内村さんはお酒が好きで、夜遅くまで付き合ったことが思い出されます。
高橋照二さんなど4部の面々
この頃の4部には1966年の計量法改正に携わっていた業務課の高橋政雄さんや、省令文章を作ったりした質量計の高橋照二さん、体積計の穂坂光司さん、タキシーメーターの角田和一郎さん等専門職の方々が居られたので、法令関係とそれに付随する技術についてはほとんど私の決定は必要なかったように思います。土浦市でのガスメーター爆発事故、タキシーメーターの初乗り以後における不正への対応等がありましたが、主には検定技術の簡素化、効率化、3支所との調整、ブロック会議などへの出席、検定所からの要望、問い合わせへの対応などが主要な仕事だったのかも知れません。
箭内庄五郎さんから教わる
東北・北海道計量大会への出席は業務課長の高橋さんと交代で行くことにしていましたので、宮城県で開催された1975年の大会には私が参加することになっていました。このとき宮城県は、東京からの招待者の取り持ち、案内をはかり工業会の会長であった北東衡機の箭内庄五郎さんに依頼したため、箭内さんから、計量課からの出席者の確認と、前日に福島に一泊し、仙台に向かうことにしたいとの意向を私に連絡してきました。計量課の出席者を確認し二人で会議の前日、福島の飯坂で一泊することになりましたが、夕食後計量課の人は寝てしまい、私は箭内さんからいろいろな事を聞くことが出来ました。聞いた話では箭内さんは大使館に勤務していたこともあったとか、ゆっくり話したのはこの時だけですが、「公務員が最終的に判断する時は、国のためになるかならないかである」との言葉は今でも耳に残っています。この時の宮城県の計量検定所長は平間繁男さんでしたが、東北・北海道の検定所長連は酒豪がそろっていて、お酒も随分とはかどっていたようでした。
4部長の諸業務
部長の仕事にも慣れてきてはいましたが、計量行政審議会専門部会への出席、計量課との打ち合わせ、所内での事務処理、支所との連絡、計量教習所への講師派遣、教習所への入所者の選定、都道府県計量検定所との連絡、部内の相談、メーカー、ユーザーとの対応など忙しい毎日を過ごしていました。計量協会等のブロック会議では東北・北海道、関東甲信越と中部7県にはよく出席していたように思います。