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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)
通産省計量教習所所長時代
片道2時間の通勤
1969年に計量教習所は東村山市に設立されていた宿泊設備の整った通商産業研修所内に移っていて、教習生は2人一部屋の全寮制でした。宿泊設備が整ったこともあって講師の方では宿泊して講義をしていた人もありました。市川のわが家からは片道2時間程かかり、通勤が大変でした。教習所の講義時間は朝10時から12時までと午後1時から5時までの50分授業で、職員は1人、2人が早い出勤で他は9時半頃までの出勤で間に合い、私などは遠いこともあって、10時少し前の出勤でした。研修所内には小さくとも計量教習所長室がありましたが、計量研の4部長室とは違い部長付き係員も無く、静かな環境を楽しんでいました。また久米川駅から研修所までは、研修所の車やタクシーを使っていました。
環境計量教習のことなど
私が赴任して直ぐの8月、一般計量教習と第4期環境計量特別教習の修了式があり、初めて私の名前の修了証書を渡しました。字の下手な私は、修了証書印刷に使う氏名の手本を、書が堪能であった計量研の藤田伊八さんに下書きを書いてもらいました。この字は環境計量講習にも使っていますので、随分たくさんの修了証書に印刷されているはずです。
環境計量講習といえば2週間の講習の内、実技1週間は教習所と(社)日本環境測定分析協会(日環境)と分担して行っていましたが、座学の1週間は教習所のみで1年に数回開催していました。1回の講習人数が300〜400人にもなるため、会場探しに骨が折れ、東京大学の法学部教室、代々木の青少年センター、計量会館、日しょう会館など、いろいろの所を会場にしました。話はそれますがその時使った(社)計量管理協会が発行した値段の高かった「計測者のための教育・訓練」の本を教科書として使いましたので、(社)計量管理協会は相当潤ったはずです。
教習所の体制正常化
間もなく矢萩さんの退職が決まり、中原喜敏さんが教務班長に、また水島敏男さんが技術班長として教習生を監督することになり、退職した矢島さんの代わりに本省から田中紀美子さんが赴任してきました。この頃になり漸く教習所の体制も、業務も正常になったように思います。教習内容にも目を配り始め、数学の授業は物理の授業の中で必要な部分を教えることになっていましたが、物理以外の教師から、授業に差し障りがあるとの意見もあって、数学の授業を復活させ、さらに電気の基礎と実験を新設するため、玉川大学にいた菅野允さんと法政大学にいた望月武さんとにお願いをしに行き菅野さんに講義を、法政大学の松田さんに実験を見てもらうことになりました。
計量の実技習得教習に苦心
教習所は知識も大切ですが、計量器に対する実務が必要と考え、実習を充実する総合的実習を加え修了実習として長さ、電気抵抗、力と液体密度の測定の四つを新設、また千葉県の斎藤所長と相談して、行政不服審査法の特別講義と千葉県計量検定所の協力を得て大型はかりの検定実習を再開しました。このときの一般計量教習課程での修了前1ヶ月ほどは、行政機関からの生徒と民間からの生徒を区別し公務員コースと計量士コースとの2つの授業体制をとり、授業の効率化をしたため、時間を有効に使えたことから、新しい発想も出てきました。
計審使用事業場分科会長
計量行政審議会関係では幾つかの委員はそのまま引き続いていましたが、計量教習所長として堀さんが担当していた計量管理及び計量士専門部会の計量器使用事業場分科会長を引き継ぎ、計量法上における計量管理のあり方、計量器使用事業場の拡大等を検討、1976年に答申しています。この時の会議で計量器使用事業場の指定権限について政令指定都市の大阪市の岩田さんと名古屋市の畠山さんから都道府県と同じ立場にある政令指定都市に指定権限を与えるべきとの意見があり、千葉県の斎藤さん達との間で随分と活発な意見の交換があったことが思い出されます。
環境計量特別教習修了者面接試験
環境関係は、国家試験合格者のための環境計量講習は1週間の実習と、1週間の座学で環境計量士になるための条件が整うことになっていましたが、一般計量教習(5ヶ月)修了者のための環境計量特別教習(2ヶ月)の修了者は、経験年数を面接試験で確認することになっていました。この教習は計量行政公務員を対象にしたものですが、環境計量士を希望する人も受講できるようになっていましたので、1年に数人がこの面接を受験していました。