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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)
通産省計量教習所所長時代
化学的知識と環境計量特別教習
都道府県や特定市からの受講者は、物理、工学方面の知識は持っていますが、化学については使うことも殆ど無く、化学的知識を必要とする環境計量特別教習にきて戸惑うことが多かったようでしたので、受講が決まった時、原子記号、分子量などの初歩的勉強を要請したこともありました。そんなことで2ヶ月間の環境に関する授業は、相当に骨が折れたようでした。そこで慰労の意味合いから、特に年配者を中心に都道府県からの受講者何人かを、教習の終了間際わが家に招き、一夜の宴を催したことが数回ありました。
度量衡技術講習等の修了者名簿
計量教習所の前身は中央度量衡検定所が1903年から行っていた度量衡技術講習ですが、この講習の修了者名簿も無ければ、計量教習の修了者名簿も作られていませんでした。そこで、初めに1903年からの修了者を度量衡協会の雑誌「度量衡」から調べ、1341名の名簿を作り、ついで計量教習の54期までの名簿を、費用が無いためガリ版刷りで完成させました。雑誌「度量衡」を調べるため何日も、暇を見つけては計量会館に通いましたが、本宮大介さんと小泉袈裟勝さんや佐藤次郎さんとご一緒してはお酒を飲んでいたことが思い出されます。
本宮大介さん
この頃からでしょうか本宮さんは、早く教習所を辞めて計量士会にこい、きてくれと勧誘されていたのを思い出します。艶福家の本宮さんも家族のこともあってでしょうか、早く宮崎県西都市にいる奥さんの所に帰りたかったようでした。
通産研修所バーでの酒宴
通産研修所には理髪所の他バーもあり、夕刻5時半頃からウイスキーやお酒を傾けることもできました。
教習所長は地方から受講者の陣中見舞いなどに来所する方々も多く、時にウイスキーなどをいただくくことがあり、これをバーにキープしていましたので、それを飲みながら講師の先生方と懇談していたことが思い出されます。今考えても家が遠いのに、ここでお酒を飲み夕食はどうしたのか思い出せませんが、毎晩遅い帰りだったことは確かです。
教習生の中には酒豪もいて、家から焼酎を送らせたり、バーでウイスキーを相当数飲み干した人もいたようです。
筑波からの旅費満額獲得
機械試験所の筑波移転に伴う村山分室の跡地利用問題は、堀所長のときに通商産業省として運動場や計量教習所の環境関係と大型はかりなどの実習設備を含めて土地取得を要求していたようで、この頃に漸く本格化の要求になってきていました。
要求の必要性と肉付けをさせられましたが、要求の理由付けに教習所が利用されただけであることはこの頃から判ってはいましたが。
1979年の予算要求は1978年の6月には第一次ヒヤリングがありました。教習所としての主な要求は環境講習、環境教習と一般教習の実験器具の整備、講師の謝金、旅費等で計量課を通してのものでした。この時の要求では、計量研が翌年の後半筑波に移ることになっていたため、計量研からの講師旅費の要求がありましたが、1979年1月はじめ満額が認められました。
米田さんの逝去
1月15日から福岡、山口、広島、大阪を回って20日に帰ってきましたら、米田さんが亡くなられており、21日の神式による通夜に伺いました。
計量課の意向と所長退任
1979年になって間もなく、計量研の桜井所長から連絡があり、初めての肩叩きがありました。計量教習所長になる時の、2〜3年という話もありましたので、計量課からの申し入れとのことでした。退職するについては、私もまだ54才、次の就職を考えてほしいとお願いしたところ、(財)製品安全協会の検査部長が空いているが、との話がありました。前に計量課にいて、その時には工業品検査所に帰っていた大坪睦治さんに調べて貰いましたが、(財)製品安全協会の検査部長は定年が57才であり、薦められませんとのことでした。
日本計量士会に移る
桜井所長には自分で見つけるからと就職の世話を断りました。
本宮大介さんや小泉袈裟勝さんとの義理もあり、(社)日本計量士会に移ることに覚悟を決めたのもこの頃で、この年の3月には退職願を庶務室に預けました。ただ後任人事がスムーズにいかず、私は桜井所長には大阪支所長の高井登さんを推薦していましたが、高井さんの断りなのか、計量課に押し切られたのか、話をしなかったのか、等級的に無理があった渡辺修一さんを持ち出され、強引な取り扱いで、とうとう12月までかかって漸く私も退職することが出来ました。
計量研からの所長では思うようにならなかった思いが計量課にあったのかも知れません。私が計量士会に移る時に計量課長はただ、計量士会のような格の低いところで良いのか、と言っただけでした。
機振協技術試験所長時代の朝永さん
国家試験合格者の環境計量講習の実習は、東久留米の鋳物センターで行われていましたが、ここは(財)機械振興協会技術試験所の敷地内で、技術試験所長は朝永さんでしたので、実習があると必ず一度は、鋳物センターに行って、その度ごとに朝永良夫さんにお目にかかっていたように思います。朝永さんが(社)日本計量協会の会長になられたのもこの頃でしよう。
朝永さんには都道府県計量検定所長と(社)日本計量協会との関係、その他協会の事情などを話したことが思い出されますが、朝永さんは、専務理事の堀忠良さんを相当に信用されていたようでした。