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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)                 

日本計量士会での仕事

関口幸雄さんの出向

 専務理事になり2〜3ヶ月程たつと、長野計器の箕浦務さんや戸谷幸一さんなどの説得と本宮さんを悪者にすることによって、溝呂木さんも総会で揉めたことなど忘れ私を信用してくれるようになりました。計量士会にきて僅か6ヶ月ほどの期間でしたが、事務局体制の不備が目に付き、その強化が早急の課題と見ました。しかしこの時の計量士会では経理上の手当てが出来ませんので9月に入ると溝呂木会長を訪ね、庶務と経理の分る人の出向をお願いしましたところ、その場で、突然と関口幸雄さんが呼ばれ、計量士会への出向を決められた即決には、私も驚いたものでした。計量士会での経理は闇の中のようで最初の建て直しが必要と考えました。元中央度量衡検定所の職員で小泉さんと付き合いのあった内藤さん1人が経理担当で、すべての出納を処理していました。溝呂木会長は叙勲に対する希望が極度に強く、通産省への働きかけを理由に、資金が不足すれば本宮さんが溝呂木会長にお願いして充足していたようで、お貸し下されが随分あったようでした。叙勲の結果が得られたことも本宮さん退任の理由の一つだったのでしょう。これから関口さんによる庶務、経理の組織化が始まることになります。

『計量ジャーナル』の創刊

 この秋のことだったように思いますが、長野計器の溝呂木会長を訪ね、これからの計量士会についての計画を話し、了解を得るとともに、会員に対する情報の提供のため情報委員会、検査事業部内に計量機器検査のためのマニュアル作成委員会を立ち上げる事と、さらに社団法人に定期刊行物がないのは会員に対するサービス不足として、来年度から年4回の定期刊行物を情報委員会の仕事とし、溝呂木会長に1年間だけその費用を負担して貰う事にしました。この定期刊行物が『計量ジャーナル』として定着したのは歴代編集委員の努力と会員の協力の賜物と思っています。

米国・カナダ調査旅行

 11月に通産省貿易局長から技術的貿易障害対策に関する調査員を依頼され、計工連の高田英男さんと11月末から12日間程アメリカとカナダを回りました。上智大を卒業している高田さんにすべての計画とアポイントメントをお願いし、話なども心強い味方で、ほとんどを高田さんに頼り、目的であったガスメーター、水道メーターの現状、特に規制状況を調査し無事帰ることが出来ました。この時最初に訪問したNBSには計量研から留学していた増井良平さんが居り湿度の研究室などを案内してもらいました。この後、ニューヨークからカナダに渡りトロントからサンフランシスコを経て帰ってきました。

白石良平さん

 昭和56年になると情報委員会は『計量ジャーナル』の編集委員会に様変わりし、4月の第1号発刊に向けての準備になっていました。この時の編集委員は石田三郎さん、和田武雄さん、中山敏雄さん達が主でした。長野計器から白石良平さんの身柄を預かることになりましたが、白石さんとは計量研時代からお付き合いがありましたし、白石さんの知識が豊富でしたので、『計量ジャーナル』、マニュアル委員会の事務や計量旺美会の世話などの仕事をして頂きました。

 『計量ジャーナル』は昭和56年4月に記念すべき第1号を発行することが出来ました。

 この年の総会は藤田さんを議長に財政基盤の確立のため、57年度からB会員、準会員の会費を4000円から6000円にする事を決定しました。久永忠義さんを支部長とする鹿児島県支部が誕生し、お祝いに既に宮崎県西都市に帰っていた本宮さんに出席してもらいました。

ガスメーター分科会長(1)

 ガスメーターについての委員会が既に開かれていた様にも思いますが、計量行政審議会の検定検査部会に小泉さんを長にした大型はかり分科会、和田功さんを長にしたガソリン量器分科会、盛田清隆さんを長にした水道メーター分科会などが発足し、検定検査の再検討が行われました。この時私はガスメーター分科会長になりましたが、計量課からの話では、ガスメーターは問題が無く簡単に審議が進む、とのことでした。ところがガスメーターの有効期間延長問題が浮上、簡単どころかガスメーターの製作者、使用者間の思惑等もあり結構気を使ったものでした。ほかの分科会は手際よく早い時期に結論を引き出していましたが、ガスメーター分科会はメーターの性能試験とフィールドテストの必要から実験期間を経たため、大分遅れたはずです。

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