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私の履歴書 蓑輪善蔵(日本計量史学会会長)                 

日本計量士会での仕事

検査事業の推進

 計量士会は会費収入以外では検査事業(主として力計、材料試験機、温度計)と講習会事業で、このままの方向で進むべきかどうか議論したいと考え、原副会長を長とする基本的検討委員会を発足させました。この委員会の発足は、委員はもちろん、理事に計量士会への関心を深める大きな要因になったと思います。

 この委員会は1985年原さんから引き継いだ橋本和義副会長が、中間答申をまとめ『計量ジャーナル』に発表しています。

痰と咳に苦しむ

 このころ、体調が突然と悪くなり、ある日の午後事務所から会議に出席のため、外に出た途端、目が回り歩くのも困難になり、田中さんに頼んで近くの医院に連れていって貰いました。

 血沈、レントゲンと1ヶ月程検査を繰り返していましたが咳がとまる事も無く、紹介状と共に大学病院へ行くことを薦められました。どうも話の様子では大分悪そうでしたので、家に帰って話した所、倅が紹介状を分からないように開けると、肺がんとの事が書いてあり大騒ぎになってしまいました。倅が大塚のガン研に入院していたこともあり、早速とガン研に飛び込みましたが、医者は持っていったレントゲン写真と、ガン研で写したものを見比べながらガンの疑いは少ないが、念のため気管支鏡で調べようと後日の検査になりました。

 当日は家族と一緒にとの事でしたが結果は無罪放免、お蔭で煙草を止めることが出来ました。しかし、それ以後肺結核だとか、聞いたことの無い名前の菌が出たとかトラブルがあり、今でも痰と咳に苦しんでいます。

溝呂木会長の死去

 国鉄の公社化はこの頃だったと思いますが、国鉄貨物関係の計量管理について委託事業化の相談があり、東京近郷だけですが1、2年ほど計量士会の職員によるはかりの検査を実施したことがありました。

 1984年8月、連合会時代からの溝呂木会長が亡くなりました。連合会長に就任以来、計量士会に対する物質的貢献は並大抵のものではありませんでした。計量士会としての対応をどうするか、そして計量士会の財政問題は大丈夫かなどの大きな課題を抱えることになりました。

 対応については長野計器の戸谷さん、副会長の原さんと相談し、葬儀主催の一員として100万円を拠出することとし、全国各支部に募金をお願いしました。会員各位のご協力により無事募金を達成、溝呂木前会長に報いることが出来ました。

 計量士会は、9月に開いた臨時理事会で原副会長を会長に推し、今後の運営を行うことになりました。

計行審委員の仕事

 計量研出身で中立的立場の団体等にいる人が少なかったこともあり、計量行政審議会の専門部会、工技院の国際計量標準委員会の委員や計量教習所の講師、また計量協会の常任理事になったことから国際化研究委員会、『計量のひろば』の編集や各種委員会の委員を引き受けざるを得ない様になっていました。

 さらにこの年は計工連と日中経済協会による専門家集団の中国派遣がありました。団長が計管協の松代正三さん、他にオーバルから石川さん、大和製衡の吉田さん、千野製作所の落合さん、副団長の名で私の5人と日中経済協会から中嶋さん、通訳の藩さんの7人で11月、北京、西安と上海を講演、質疑を主に、観光を含めて10日間程旅行しました。

 中国も今とは違い、電力、電話、交通等が不十分で、ホテルでも朝早くは暗い中で食事したこともあり、電話もなかなか通じなかったことも有ったようでした。北京から西安までは飛行機で行きましたが、西安から上海までは三十数時間をかけた汽車の旅でした。日本ではこんなに長い時間を走る列車はありませんが、4人一部屋の寝台車で中国酒と話で時間をつぶし、途中南京、徐州など記憶にある場所では停車時間も10分以上もあった所もあってホームを散歩し、お菓子を買ったりしていました。この時の中国訪問は、講演や検討会などを除けばVIP待遇で、北京についた時などは税関も通らなかったし、見学、買い物、食事など得難い経験をしながら10日間を過ごしました。

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