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私の履歴書 齊藤勝夫(第18回計量賞受賞者、元千葉県計量検定所長、元流山市助役、現千葉県計量協会・計量士会会長)
03年、私が千葉県計量協会長として取り組んだ事業
懸案の関東甲信越計量協会・計量士会の協議会の合同開催に漕ぎつける第1編 山を動かすきっかけ
中小企業総合指導所長に異動
私は昭和54年4月千葉県計量検定所長(当時の役職等級は本庁の部長職で、全国で最高位の所長)から、中小企業総合指導所長(本庁部長相当職)へ異動した。
ここでは中小企業行政を直接指揮し高度化事業で一箇所当たり24億円の資金を投入して中小企業者の集団の大型店舗をつづけて二箇所つくりあげた。
個々の事業者の努力では絶対に達成できないことのメリットを集団化によって実現することで、個々の事業者の繁栄を確保するということで画期的な事業であった。
職員の意識改革に腐心
中小企業総合指導所長として心掛けたことは次のことであった。
それは徹底した中小企業診断の所員の意識改革である。行政機関である指導所の目的ははっきりしているが、そのことの徹底と同時に、中小企業経営者達の目指す目的との差を縮小することであった。これは別の言葉で言えば中小企業経営者と気持ちは一心同体になることである。だから仕事をするときの心構えを「役所のため、自分達のために働くな。汗をかいて相手のために働け、前へ進め、失敗を恐れるな」と説いて諭した。そしてまた「仕事の失敗の責任は俺がとる」と述べた。職員の意識改革のために、ありとあらゆることを話し、これでもかこれでもかと吹き込むように説いて聞かせた。職員には自分の仕事に誇りと自信をもって働くようにし向けることに意を用いた。
この職場では、計量行政に在職していたときと違い創意工夫という精神を大いに芽生えさせることができた。
沼田武知事に可愛がられる
2年間の中小企業総合指導所長としての在職期間はあっという間に過ぎた。
若いときから仕え、可愛がられて厚遇を受けた沼田武知事(20年間4期知事)の命令一下、異例の抜擢人事で東葛飾支庁長の職を拝命した。
東葛飾支庁長は、知事の文字通り分身ポストである。東葛飾支庁は首都圏に近い9市2町(人口240万人余)を管轄する。東葛飾支庁長の次の職場となったのは、東葛飾支庁管内の流山市(人口16万人余)で、ここの助役として赴任を命ぜられた。流山市の助役として勤務したのは2期8年間であった。流山市長は前県会議員であって、沼田知事とも誠に親しい方であり、私としては精一杯の仕事をさせていただいた。
仕えた市長が3選目にして市長選挙で敗退したため、いま一度沼田知事のもとに帰ることになった。沼田知事は成田空港がらみの日本航空の子会社の参与として赴任する手筈をして下さった。何から何まで行き届いた沼田知事のお心配りに頭が下るばかりであり、感謝を表す意味からも一生懸命その任務についた。その後は県の中小企業の新しい殿堂のベンチャ企業育成の多額の予算を投入してできあがった「東葛テクノプラザ」の調査役を拝することになる。計量界に尽くす誓い
その間、丁度在任中の平成11年春の叙勲を受章する栄に浴し、あちらこちらの分野で祝賀会をやっていただき、計量8団体合同の祝賀会を平成11年9月13日、盛大に開いていただいた。この席で沼田知事には1時間有余、席におられるという破格のご参列の心遣いをここでもいただくことになる。この計量の世界の皆さまに開いていただいた叙勲祝賀会祝賀の感謝の言葉のなかで「これから計量のために微力を尽くす」ことをお誓い申し上げたことが、その後の私の行動を決めることになったといってもよい。
千葉県の計量協会長に
「これから計量のために微力を尽くす」との誓いの言葉を述べたことが遠因になったのか、平成13年千葉県計量士会会長に推挙され、明けて平成14年6月の総会で、守浩三協会会長の後任として千葉県計量協会会長に全会一致で推挙選任された。
このことが山が動く第一番目のきっかけであり、なかでも計量士会会長、計量協会会長の双方に任じられたことが、きっかけの最たる要因となった。
このような経緯を経て、前述のように昭和54年計量検定所長を去って以来、20余年振りに、平成14年7月3日、東京で開催された関東甲信越計量協会連絡協議会の理事会に、千葉県の計量協会会長として出席した。計量界に戻った証のように私には思えた。
浦島太郎の心境
「久しぶりです。浦島太郎の心境です。20世紀の化石が現れました。よろしく」との挨拶をした。そこに突然に、私が計量検定所長時代お世話になった懐かしい恩人の一人でもある茨城県の岩淵<CODE NUM=4322>太郎計量協会会長から大きな声が発せられた。「お帰り齊藤さん、いいときに帰ってきた。来年計量協会のブロックの当番が千葉県だ。計量士会の会長もやっているので、まさに千載一遇のチャンスだ。両方一緒に齊藤さん合同でやってくれ」と。
往時の天皇の命令のように重圧感が加わる。なんの予断もない私にとって一瞬たじろいだ。すぐに平常心にかえり、みんなに聞こえるように問い返した。
「そもそも私は持論としては慎重論者だ。考えてもみてください。計量士会の方々は、ポケットマネーを出して会の会費を納めている技術的知的集団であり、協会のみなさんは総じてオーナー集団であり、構成分子が違う。仮に一緒に協議会をやったら提案議題の80%は間違いなく計量士会側の議題が占めますよ。それでもよいですか、それを受け入れる度量をお持ちですか」と。
君子豹変せよとの後押し
すると「それでもいいんだ、やることに意義があるんだ、頼むよ」との声。こうしたやり取りをするともう背を向けられない。そこへ群馬の横田初英会長も、埼玉の松村恒夫会長も、加えて東京の小野田元会長まで「頼む、賛成だ、やってほしい」。逡巡したが、「それでは君子豹変しろということですか」。言葉を返すや否や、茨城の岩淵さん「その通り。ここで豹変してくれ」。
やんぬるかな、万事窮す。千葉県の理事をしている恵藤さん、楠本さんの顔を見る。なんとなくやむなしの顔に読みとれた。私は「分かりました。豹変しましょう。先程言ったことは承知してもらうということですね」。
当然ながら相槌が返ってきた。
真実の記録を残したい
このやりとりが、やがて山が動く第2番目のきっかけとなった。歴史は、単なる記録ではない。歴史にはドラマがある。ドラマは人が演ずる。その歴史は人が主役となってつくられて、記録される。記録は事実を刻む。
次の世代の人々のため、登場人物は以後も実名を使うことにする。この私の拙稿に異義のある方は、すぐ自らも主張していただきたい。歴史は真実を綴りたいし、残したい。
次項では、その歴史をつくった方々の情熱と力に触れる。それは、千葉県として異例の姿の協会を構成している8団体の長・役員が勢揃いして23名が大挙して平成14年10月3日、4日に長野県で開催されたブロックの協会連絡協議会に出席して目の当たりにした協議会の行方と実態と進行を臨場感あふれる姿で注視し、肌で吸収してくれた身内の実力者と昨年の会議を司宰してくれた方々、さらにその時の出会いの方、特に帰路、車中での膝詰めで激論し、以心伝心で手を握って「やろう」と言ってくれた旧友からの話しが始まる。