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日本計量新報 2016年11月27日 (3128号) |
加茂水族館長村上龍男の生きざまと役人への怨嗟の言葉水族館で遊ぶことが流行っている。お金を無尽蔵に注ぎ込んだ官営の水族館が入場料で運営費を賄っているかはよくはわからない。山形県の加茂水族館は1930年に民間の水族館として営業を始めた。近くに歓楽温泉郷の湯野浜温泉があるので温泉客が水族館の客だった。1955年に鶴岡市に買い取られ市立となって1960年代は年間20万人の入場者数があった。1967年に市から第三セクター会社に売却・移管。その後に経営が悪化して倒産する。経営は東京の商社に変わるが経営は好転しないこともあって2002年に鶴岡市に買い戻される。この前後には年間入館者数が10万人であった。 山形大学農学部の阿部襄教授のもとで淡水魚の生態を学んだ村上龍男は卒業すると東京の商事会社で働く。東京のビルの窓からは緑が一つも見えなかった。ここで3年働いていると、教授から「水族館で人を募集している、資格等ぴったりしているのはお前しかいないと」と連絡がはいる。自然が好きだったので故郷に帰りたい渇望と重なったり、水族館に勤めることになった。 当時の水族館職員は鶴岡市の職員3名を配下とするトップの地位にあった。水族館に4年勤務したころには入場者は20万人を超えて繁盛していた。しかし市は水族館を売ってしまった。そのころ村上は27歳になっていて館長にされた。近隣の新潟、秋田、青森でぞくぞくと大きな水族館を運営するようになっていて来客者が激減した。 世界のナマズ展、古代魚展をしても客足は戻らない。1頭1500万円するラッコを2頭購入した。1頭分しか資金がなかった。そうした不足分は個人の負債で手当てした。借金は館長の村上龍男個人が背負った。村上にはホームレスになることもあるという思いがいつもよぎっていた。いろいろなことをしたが入場者は9万人に落ちた。絶体絶命の窮地に陥ったときに水槽のなかで泳いでいる生き物を見つけ、それを育てるとクラゲだった。クラゲを展示すると反響があった。クラゲの展示を増やすと来場者が増えて、2012年のギネスブックの認定世界一のクラゲの水族館になった。この年には新記録となる27万人の入館者数があった。収益をだす水族館に変わっていた。 鶴岡市立になっている水族館は、行政の予算措置や補助金に依存することなく、自力で黒字化を果たして利益を生み出し、市に寄付金を上納するまでになっている。内部留保と住民参加型の公募債「クラゲドリーム債」の発行を原資として新館が建設された。クラゲ債も、第1回の3億円分は募集開始から20分で完売した。 加茂水族館と運命をともにしてきた村上龍男は苦境に立っているときには3日3晩眠れないような状態になり追いつめられていた。村上龍男は目の前が海なので釣りにのめり込んだ。釣りをしないのは一人前ではないと、そんな時代だった。黒鯛釣りが上手だとそれだけで尊敬された。「自分はこの世にいらない人間かなあと考え、建物から逃げるようにでた。どうすればいいかとウロウロしていた時期があった」。そうした時期に釣りをした。釣りは逃げ場として役にたった。 水槽のなかの正体不明の生き物の飼育をするとそれがクラゲであり、クラゲの飼育のコツをつかんでクラゲを増やすと入場者が増えた。偶然のことではあるがそれが周辺の大型水族館にはない特徴になった。思いも寄らないところに成功の種があった。2014年6月に開館した新館は「クラゲドリーム館」が愛称。開館後の入館者数を鶴岡市は年間30万人と見込み、村上龍男館長は50万人と見込んでいたが、3カ月で40万人を突破、1年では100万人を超えた。これを見届けて村上龍男は2015年に水族館館長を退任している。 村上龍男は「 行政の手がける事業では制度が優先する。法令、条例、監査、前例を重んじる。その結果として収益の出ない事業に留まってしまう」と述べる。それ以上に強い言葉を吐く。2016年10月に東北・北海道計量大会の記念講演の講師として演壇に立ったの村上龍男は役人批判を繰り返した。冒頭から終末まで役人批判を口から吐いた。水族館の運営を通じて役人の無責任さに苦しめられた加茂水族館館長を長年つとめた村上龍男の生きざまがもたらす役人への怨嗟である。
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