No.01 八ヶ岳山麓の樅の木をみて世界を考える
都市生活と森とのかかわり
 
 

 写真は美濃戸口から北沢を赤岳鉱泉を経て八ヶ岳に登る道端にある双子の幹の樅の木(もみの木、モミの木)で、祠と御神酒が備えられている。シラビソの林の中にこの樅の木のひときわ太い幹が目に付く。そしてこの山域は諏訪大社の御柱祭りに用いられる樅の木の切り出し場所であるので、この樅の木は諏訪野町を連想させる。樅の木は微香性であるためサワラなどとともに木桶おひつ、寿司桶など食品の容器や献上台(三宝)や結納用献上台、かまぼこ座板などにも使われる。めでたいことに通じる樹木ということができよう。樅の木はマツ科モミ属の常緑針葉樹であり、高尾山などでも大木が林立する場所がある。樅の木はモミ属のうちで日本でもっとも温暖地に分布し、その北端は秋田県、南端は屋久島に及ぶ。

 正月に高山を訪ねたさいに白南天の箸(はし)を買ったもののどこかにしまい込んで使っていない。樅の木も箸にする。日本で使われる割り箸の分量を木材量におきかえると2万1千個の40坪の家が建つということから、資源無駄づかいだとおう論法が登場して、ファミリーレストランなどでは黒い樹脂製の気味の悪い箸をだしている。山や森は建材にならない樹木のほうが多い。立派な建材にするためには間引いてやってその木を切り出さなくてはならないし、枝を払わなければいまの日本の人々が求める柱などには使えない。

 間伐材をどのように使うか、建材の前後左右の端っこをどのように使うか。そうしたモノを箸に加工して人の用に供することにイチャモンをつける環境至上主義に汚染された思考方法はヤバイのではないか。

 1970年頃の八ヶ岳の赤岳直下の行者小屋付近はシラビソが枯れて白骨樹がお化けのように林立していた。シラビソの縞枯れ現象は八ヶ岳や奥秩父の山域によくみられる風景であり、北八ヶ岳には縞枯れ山という山もある。行者小屋付近の白骨樹は2000年にはシラビソなどの鬱蒼たる樹林に戻っており、ニホンジカとカモシカが人に姿をみせるほどに生息している。この二つの動物が混成していることがよいことかどうか疑問に思うのであり、もしかしてカモシカの領域に数を増したニホンジカが進入し浸食しているのではないか。

 森の生活を捨てて大きな平野で暮らすようになった現代の都市生活、都市文化は森の民であった人にどのように作用するのであろうか。『国家の品格』の著者の藤原正彦氏は作家新田次郎氏の子息であるが、その藤原氏はすばらしい数学者は美しい自然が生み育てると述べて、3人の天才数学者の生まれ故郷を旅して確かめている。『バカの壁』の著者、養老猛氏は自然は人を賢くするとNHKラジオで語っていた。木の葉をみても同じ形、同じ並び方などしていない。そのことを知ることで子どもは賢くなるというのである。GDPがアメリカ、中国についで3位になっている日本の経済と文化の行く先がそのようであればいいのであろう。よく考え、よく思い、よく行動する知恵のある人間になることだ。藤原正彦氏は氏族の子孫であることを誇りにし、武士道を標榜する。その氏は次のように述べる。中国の大伸張は中学高校生が背が伸びるのと同じようなものであり、その後の成長を支える力は文化であるから、自然科学分野のボーベル賞受賞者が一人もいない中国はやがて飽和点に達する。いまの世界の覇権を握っているアメリカは、学問の世界では世界中の一流の者が集まっていて、すべての領域で最先端を切っている。アメリカの品格は学問に寄りかかっている。

 学問の乏しい国に将来の発展は期待できない。