梅雨が明けると、いよいよ夏も本番。
夏の夜の風物詩といえば───そう、花火大会ですね。
川辺にシート、ビールに焼き鳥、かき氷……。花火大会には、「ニッポンの夏」がぎゅっと凝縮していると言っても過言ではないように思います。
たくさんの頭が一様に見上げる夜空に、ぱっと弾ける一瞬の光。その美しさにどよめく中を、
「たーまやー!」
なんて威勢のいい掛け声があがることもありますね。
この「たーまやー!」「かーぎやー!」という掛け声。
これは、江戸時代の二大花火師「玉屋」と「鍵屋」に由来しています。
1733年、現在の隅田川花火大会の原型である「両国の川開き」が行われました。この時に花火師を勤めた6代目鍵屋弥兵衛の花火が江戸中で大評判となり、「鍵屋」の名前は、花火師として不動のものとなりました。
その後、鍵屋の手代だった清吉が鍵屋から分家するとき、鍵屋の7代目が「玉屋」の屋号を与えました。
そもそも鍵屋の屋号は、鍵屋の守護神であるお稲荷さんの狐が、一方は鍵をくわえ、一方は玉をくわえていたというところから来ています。7代目が清吉に「玉屋」の屋号を与えたのは、「もう一方のお稲荷さんがくわえていた玉にあやかるように」との配慮からでした。
以後、両国の川開きは、上流に玉屋、下流に鍵屋がそれぞれ舟を出し、2大花火師が技を競い合うという時代が約30年ほど続きました。玉屋の人気は鍵屋を凌ぐもので、浮世絵の題材にもなったほどでした。
ところが、1843年、将軍家慶が日光参拝に出発する前日に、玉屋は不慮の失火を出してしまいます。当時、失火は大罪だったため、玉屋は江戸追放となり、1代で断絶してしまいました。
鍵屋はその後も両国の川開きの花火を支え、現在に至ります。
しかし、現在でも残る「たまや」の掛け声に、いかに当時の「玉屋」の花火が、また「鍵屋」との競演が、江戸の人たちの心に刻み込まれたかが伺えるというものです。
もっと詳しく知りたい方はこちらへ
花火雑記/日本の花火(ホソヤエンタープライズ)
花火師(日本文化いろは事典)
鍵屋の歴史(宗家花火鍵屋)
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