since 7/7/2002
甲斐 鐵太郎
小布施の岩松院と一茶の「やせ蛙まけるな一茶これにあり」
(この句には一茶の虚弱に生まれたわが子の生存への願いが込められていた)
(北斎、一茶、福島正則の三人を結ぶ小布施の岩松院は不思議な存在)
長野県上高井郡小布施町雁田にある岩松院は、その本堂の大間の天井に描かれた葛飾北斎最晩年の大作「大鳳凰図」が有名、この天井絵は21畳ほどの大きさである。
岩松院は文明4年(1472年)雁田城主の荻野備後守常倫公の開基、開山は不琢玄珪禅師で本堂は140坪弱。戦国の武将、福島正則の菩提寺としても有名。福島正則は賤ケ岳の七本槍として名高い豊臣秀吉の重臣であり、関ヶ原の合戦では徳川方となってその後広島城(49万8千石)の大名になった。徳川の幕閣の謀略により元和5年に4万5千石信濃川中島に転封された。この地にいること6年、寛永元年(1624年)7月13日64才で死去する。この死も毒殺説があり、この説は真実みに富む。秀吉を意に背いた名勝が持つ力を徳川幕府は非常に警戒し、難癖をつけてお家取りつぶしに動いたからである。
以上は5月5日に岩松院を訪れたときに由来などを話したことによる。
「やせ蛙まけるな一茶これにあり」という小林一茶の句は有名である。この句は弱い者を応援する句として受けとめられているのだが、その背景には虚弱に生まれた初児、千太郎への命ごいという深い願いが込められている。一茶が千太郎の生後20日ほどの時に岩松院に来て池のヒキガエルの合戦を見て詠んだ句であるが、仙太郎は1ヶ月足らずで死ぬ。このとき一茶は54歳であった。
これも岩松院住職の説明である。
岩松院のヒキガエルは4月20日ごろに裏山から池に300匹ほどが大挙して産卵のために降りてきて、ここでオスガエルたちがメスをめぐってカエル合戦をするのである。岩松院の池に集まってくるカエルはヒキガエルである。岩松院の説明ではこれはアズマヒキガエルであるという。岩松院ではアズマヒキガエルは日本ヒキガエルの亜種で東日本に多くいるのがこれで、日本ヒキガエルは西日本に多く住むという見解をとっている。岩松院のヒキガエルはカエル合戦がすむと山に帰っていき、池には卵が残される。
ヒキガエルはガマガエルともいわれる大きなカエルで、ウシガエルが食用ガエルとして用いれていたがヒキガエルはウシガエルの代用として用いられてきた。現代の日本ではカエルと食べることは「いかもの食い」「下手物食い」としての価値を見いだされてのことであるようだ。ウシガエルやヒキガエルのもも肉の味は鳥のササミ肉に似ているという。
アズマヒキガエルはオスよりメスが少し大きく、オスは体長が12センチメートル、メスは13センチメートルほど。ウシガエルはモーモーと鳴き、ヒキガエルはぐーぐーと鳴く。ウシガエルの方が体は大きい。そしてウシガエルはアカガエル科に属する。
筑波(つくば)の四六のガマとは普通のヒキガエルのことである。ガマの油とはヒキガエルから取った軟膏であるものの近年のこの軟膏は馬油が主成分であるようだ。馬油が火傷や切り傷に効くということに関しては、その薬効が医学的に確認されていないということであり民間療法のための軟膏である。
日本に住むカエルは5科8属38種5亜種であるという。ヒキガエル科、アマガエル科、アカガエル科、アオガエル科、ジムグリガエル科がある。
ヒキガエル科は、ガマガエルとも呼ばれおり1属4種がいる。アズマヒキガエル、ニホンヒキガエル、ナガレヒキガエル、ミヤコヒキガエル、オオヒキガエルという見解もあるので岩松院の説明をどのように聞くかだ。ただし岩松院のカエルはアズマヒキガエルであることは間違いないことであろう。
葛飾北斎は晩年の一時を小布施の 高井鴻山(文化3年〜明治16年(1806から1883))のところに実を寄せた。葛飾北斎は83歳のとき初めて小布施を訪れ、90歳で死亡するまで何度もこの地を訪れる。鴻山の屋敷には北斎の居室が設けられ、北斎はここに逗留する。岩松院の天井絵「八方睨み鳳凰図」は鴻山と北斎の縁があってこそのものである。
小林一茶の「やせ蛙まけるな一茶これにあり」の名句は岩松院の池があってそこに逗留したときに虚弱に生まれたわが子が居たというめぐりあわせでによって詠まれることになった。もっとも俳句はどこかでその句を詠む切っ掛けがあって長いこと構想を温めたり、一度詠んだ句を再吟味することによって完成することがあることを松尾芭蕉が示している。
福島正則の豊臣方から徳川方への「寝返り」はほかの重要な豊臣家臣にもいたから正則ただ一人のものではないものの、そのような経歴を徳川の幕府閣僚は知っていて次に機会があれば同じような行動を取ると考えることに何の不思議もない。「毒を食らわば皿まで」ということで、一端豊臣に使えたら豊臣と運命を共にする覚悟があっても良かった。石田三成の性格に伴うこれとの確執、そして徳川家康の陰謀に勝てるほどの強者は居なかったいうことであろうか。
北斎、一茶、福島正則の三人を結ぶ小布施の岩松院は不思議な存在であり、この地にまた江戸から明治にかけて生きた文化人高井鴻山(文化3年〜明治16年(1806から1883))がいたことも縁であった。