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計量計測データバンク「日本計量新報」特集記事寄稿・エッセー(2015年一覧)>【中村邦光】日本の科学史 享保改革における「禁書と出版統制」−漢訳西洋科学書の場合−

日本計量新報 2015年9月13日 (3072号)5面掲載

日本の科学史 享保改革における「禁書と出版統制」−漢訳西洋科学書の場合−

(一社)日本計量史学会理事 中村邦光

古代の文化遺跡を探訪して、科学知識など思考の伝承手段とし欠かせないのが「文字」文化と、そして「紙と印刷術」であることを改めて確認しました。
 ところで、従来の日本科学史上では、享保改革(1720年頃)の一環として漢訳西洋科学書(以下、漢文科学書という)の「禁書が緩和された」という評価が定説となり、ほとんど疑われていないように思われますが、本当に禁書は緩和されたのでしょうか。疑問です。
 江戸時代における「個々の科学概念」の認識の状況に関する筆者の調査・研究において、17〜18世紀の日本に中国から舶来した漢文科学書の影響が、あまりにも日本の書物に現れていないことが判明したからであります。

1、享保改革における「漢文科学書の禁書緩和」という通説?
 とかく自国の歴史に関しては、民族主義的な見解や地域・近隣の人への配慮から、過大評価や誤解が常識として定着しがちです。特に、権威的な2次文献を精読・学習する知識人には常識が形成されやすいので注意が必要です。
 日本科学史上では、戦後(1945年以降)に見直しされていない事柄がいまだに多いようです。その中でも、特にこの記事では、日本科学史上の「享保改革における禁書緩和」という通説の「見直し」を試みたので、その結果を紹介します。
 じつは調査の結果、1630(寛永7)年に始まり1685(貞享2)年までに特定された「南京船持渡唐本国禁耶蘇書」の目録(38種)は、1753(宝暦3)年版の『禁書類編』においても、また1771(明和8)年版の『禁書目録』においても改訂されていないことが判明しました。
 そして、その目録38種の中には、漢文科学書といえる書物が16種類も掲載されています。たとえば、搴ハ函(J.Terrenz)述王徴訳の『遠西奇器図説』(1627年刊:北京)という本は、アルキメデスの「浮力の原理」や「てこの原理」の解説書ですが、この本も『禁書目録』に掲載されていて、その内容は当時の日本の文化の中に導入されませんでした。じつは、このJ.Terrenz(搴ハ函)という人は、イタリアで結成された科学者の団体(学会)「アカデミア・デイ・リンチェイ」の7番目の会員だった人です。
 調査の結果、1685(貞享2)年以降に禁書に指定され、長崎で焼却処分にされていた「南京船持渡唐本国禁耶蘇書」の中の一部(改暦と殖産興業に役立つもの)が幕府の書庫「紅葉山文庫」に蔵書され、幕府要人(中根元圭など)だけは閲覧できるようになった、というのが禁書緩和の実状であることが判明しました。
 そして、江戸時代の『禁書目録』は、書物屋仲間によって自主的に作成されたものとはいえ、享保改革における「仲間制度(連帯責任体制)」の導入の中にあって、庶民教化政策に過剰反応して編纂され、作成されて仲間内に流布されたもので、17〜18世紀の漢文科学書の「日本の書物への影響を閉ざした」ものであることが判明しました。

2、17〜18世紀の漢文科学書の内容が「日本の文化」に影響しなかった理由
 ところで、建前「禁書」であっても、実際にはその気になれば例外的な個人は読むことができたかもしれません。また、幕府御用の特別な学者は幕府の書庫(紅葉山文庫)の中では禁書に指定された漢文科学書も閲覧することができたかもしれません。
 しかし、建前が禁書であれば、その内容を書物として公開することも伝承することもできないと思います。じつは、科学知識は書物によって伝承されるものなので、例外的な個人が理解していたとしても書物による伝承がなければ、日本の文化とはなりません。
 たとえば、調査によると、例外的に中根元圭は「浮力の原理」を、そしてその息子の中根彦循は「てこの原理」を理解していたこと、また宅間流の鎌田俊清は「πを内外から挟む考え方」によって算出していたことがわかりました。しかし、それらはその後日本の書物には伝承されておらず、日本の文化とはなっていません。
 また、科学知識は宗教と直接関係ないと思われるかもしれません。しかし、漢文科学書が禁書の対象となった理由は、キリスト教の布教と深く関わっていたのであります。
 じつは、イエズス会宣教師たちは「自然は神の創造であり、自然に潜む巧みさは神の存在証明である」とし、神の御業を紹介する意味において、西欧の科学知識を紹介したからです。
 そして、書物の検閲が幕府直裁となり、改めて「御禁書中御免書目録(18種)」が発表されたのは、1841(天保12)年のことです。しかし、じつはこれも大幅に解禁されたわけではなく、幕末に至るまで「キリシタン禁制」には変わりなく、警戒を緩めたわけではなかったのです。
 そして、19世紀以降になって、布教よりは主に商業活動が中心のプロテスタント宣教師たちによる漢文科学書、および蘭学者たちによって初めて西欧近代科学の受容が開始されるのであります。
【参考文献】
 この記事では、できるだけ注と引用文献は本文中に記載しました。特にこの記事の内容の詳細、およびその他の調査資料を確認される場合には、以下の文献を参照して下さい。
1、中村邦光、板倉聖宣『日本における近代科学の形成過程』多賀出版、2001年
2、中村邦光『江戸科学史話』創風社、2007年
3、中村邦光『世界科学史話(日本図書館協会選定図書)』創風社、2008年
(日本大学名誉教授)


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