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計量史への誘(いざな)い 計量の起源を探る−文明は計ることから始まった− |
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日本計量史学会会長岩田重雄氏に聞く |
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人類の誕生 |
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横田 人は誕生したころから物をはかっていたのでしょうか。
岩田 人類は五〇〇万年前に誕生したといわれています。そのころ、はじめて直立二足歩行をしておりました。二足歩行できるのは、鳥や獣の一部にはいますが、直立できるのは人類だけです。それまで前足だったものが手になり、手を自由に動かすことで脳が刺激され、次第に知能が発達していきました。
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最初の数の記録は時間の記録 |
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横田 人類はいつごろから数を記録していたのでしょうか。
岩田 フランスのドルドーニュ地方の三万年前の遺跡から、石に線を刻みつけた遺物が見つかりました。アメリカのアレキサンダー・マーシャックによると、月の満ち欠けの記録であるといわれております。 横田 このような記録は進歩したのでしょうか。
岩田 今から一万三五〇〇年前になりますと、ウクライナのゴンツィという所から、マンモスの骨に刻み目をつけたものが発見されています。これもフランスの記録と同じように、七日か八日毎に刻み目がつけられていますが、これは新月、上弦、満月、下弦、新月の四つの周期になっています。そしてこの四つの月齢に相当する節目の線が他の一日毎の線より長くなっています。そしてこの線の反対側には五本目の線が長くなっています。これは、この時代に、すでに五進法が使われていたかも知れないと思われます。
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人類の定住−農業、住居 |
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横田 人類が定住するようになったことと計量との関係などは。
岩田 紀元前一万二〇〇〇年ごろから、地球の温暖化がはじまりました。氷河がとけ、野も山も水にあふれ、湖や沼が出現しました。そして雨も多くなり、草や木が繁茂するようになりました。長い間、狩猟・採取の旅をつづけてきた人類は、野生の穀物を栽培してその土地に住むようになりました。
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西アジア最古の文明−先インダス文明 |
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横田 西アジア最古の文明は何でしょうか。そうした文明と計量単位との関係はどうなっていたのでしょう。
岩田 私は二〇年前にメソポタミア文明とインダス文明の質量の単位を研究しました。その結果、メソポタミアは一〇進法と六〇進法を使い、その単位の一つは五〇〇gであることがわかりました。一方、インダスは二進法と一〇進法を使い、その単位の一つは一三六九gであります。東京の古代オリエント博物館の研究部長堀晄さんは西アジア一帯で発見された取っ手のついた分銅にあてはめたところ、インダスの系統であることがわかりました。彼はこれを先インダス文明と名付けました。
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長さの単位 |
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横田 長さの単位はどのようなものを基に決まったのでしょうか。
岩田 メソポタミア文明を開いたシュメール人の長さの単位を例にとって説明します。シュメール語の語源で分類すると、
横田 感覚を利用したもので、別の単位はあるのでしょうか。 岩田 五感という五つの感覚の中で、視覚を基にした単位で、シベリアのブカーという単位があります。これは雄牛の角が見分けられなくなる単位であります。視力が一〜三、雄牛の二本の角の間隔を五〇〜七五cmとすれば、見分けられる距離は一・七〜七・七kmとなります。天候によっても異なりますが、数kmであると思われます。
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王様とものさし |
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横田 メソポタミアのものさしでエピソードのようなものはありませんか。
岩田 王権の象徴というと日本人は三種の神器を思いうかべますが、メソポタミアではものさしでありました。王は神から神殿を建設してもよいという許可を与えられた証拠として神から直尺と巻尺を手渡しされている浮彫がメソポタミアの各地でみつかっています。ウル第三王朝のウル・ナンム(二一一三〜二〇九六B.C.)は月の神ナンナルから直尺と巻尺を渡されている浮彫があります。左側の王の部分は欠けていますが下には王が斧、コンパス、綱、左官用の道具らしいものを肩にかつぎ、後から神官が手伝っております。
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西アジアの計量思想と技術の東アジアへの伝播 |
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横田 メソポタミアやエジプトの計量思想と技術が東アジアに伝播するのに何年かかったのでしょうか。
岩田 天びんを例にとって説明します。人間が死後に生前の罪を裁かれるという、死後審判思想がメソポタミアで生まれたのは、二三〇〇B.C.ごろで、エジプトで天びんを使用して審判する思想が加えられたのが二一〇〇B.C.ごろであります。この思想が中国に入ったのが六七〇年ごろ、日本へ入ったのが一〇〇〇年ごろなので、中国まで約二九七〇年、日本まで三三〇〇年もかかっています。
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計量史の研究方法とその成果 |
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横田 最近の計量史の研究方法は昔の方法とどう違うのでしょうか。東アジアにおける話題で新しいものは何でしょうか。
岩田 昔は計量器が発掘されるか、文献に計量に関する記事がないと、それ以前のことは考えられないといわれていました。中国では殷の後期(一三〇〇B.C.)以後しかものさしが出土しておりませんし、日本は七世紀以後しか出土していません。一〇年前から私は、古代遺跡の遺構の中の竪穴住居に注目していました。その中の柱穴の間隔から、統計的な方法で長さの単位を検出しました。これにより東アジアを中国大陸、朝鮮半島、日本列島の三地域に限定すると、紀元前五〇〇〇年以降は殷の時代と同じ長さの一尺が一七・三cmのものさしを使っていたことがわかりました。
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中国のます |
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横田 中国最古のますはいつごろのものですか。
岩田 今までは四七五〜二二二B.C.(戦国時代)のものが最古のますでありました。六年前に中国の趙建龍さんが甘粛省の大地湾のF九〇一という建物の遺構の中から、一対一〇対二〇対一〇〇の比率をもったますを見つけました。この年代は紀元前三一九〇年です。この大地湾の遺跡は紀元前五〇〇〇年ごろから続いており、ますの発見された建物は五〇尺×一〇〇尺の大きさがあり、一尺は一七・四cmでありました。最小のますの容量は二六四cm3で、成人女性が片手をわんのようにして水を入れた場合(五三cm3)の五杯分の容量に相当します。
戦国時代になると、一升は国によって異なりますが平均二〇〇cm3です。これは成人女性の両手わん一杯分に相当します。
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始皇帝 |
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横田 秦の始皇帝が中国を統一したとき、度量衡制度をもりこんだ法律を公布しましたが、この制度はいつごろできたのでしょうか。
岩田 秦は紀元前一〇世紀末に建国された国で、紀元前三五〇年に商鞅という大臣が度量衡制度を大改革しました。紀元前三五〇年の秦一号宮殿は六尺を一歩とし、一尺が二三・一cmになっておりました。現在、上海博物館にある孝公一八年(三四四B.C.)の銘の入った商鞅の作ったますは、一升で二〇二cm3の容量があります。これに二二一B.C.の始皇帝の「これを基準とせよ」という命令も彫ってあるので、一二三年以上秦で使われていた制度を中国全土に公布したもののようであろうと思われます。 横田 始皇帝は分銅とますの誤差に対して、どのような刑罰を課したのでしょうか。 岩田 紀元前三〇六年から紀元前二一七(始皇三〇)年までの法律を書いた竹簡(文字を書くために加工した竹)には次のようにあります。 横田 始皇帝は自分に対して、あるノルマを課したといわれますが。 岩田 一日に一石の質量(三〇・三九kg)の申請された書類を決裁しました。
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日本のものさし−中国との関係 |
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横田 日本人はいつごろからものさしを使用していたのでしょうか。
岩田 日本でものさしが出土するのが七世紀からです。昔の遺跡の中の遺構(残存している構造物)が規則的に作られているのに注目し、統計的な方法で長さの単位を紀元前一〇〇〇年以前で、長さの単位二つを検出することができました。一つは平均値一七・三cmで、残りの一つはこの四倍の六九・二cmでありました。
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東アジア(中国大陸・朝鮮半島・日本列島) |
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横田 東アジアのうち、中国・朝鮮・日本の一尺の長さはどう変化したのでしょうか。
岩田 東アジアの古代遺跡二三八、ものさし五一四から推定すれば、中国・朝鮮は一二三七B.C.以前、日本は一〇八七B.C.以前の一尺の長さは一七・三cmでありました。 横田 激しい伸びとはどの程度でしょうか。 岩田 一七・三cmが二三・一cmになる最初の伸び率は年間に〇・〇七mm、つぎの伸び率は一年間に〇・五七mmです。わずかな伸びのように見えますが最初の場合は八〇六年で三三%も伸びたことになります。
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ものさしの変化から見た中国と日本の歴史 |
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横田 ものさしの変化から中国の歴史を見るとどんな姿が浮かんできますか。
岩田 最も大きな中国社会の混乱は二つあり、そのうちの一つは一二三七B.C.から四三一B.C.までのものです。これらの年代は数年から数十年の誤差が含まれます。これは殷末期の政治的混乱と、周が殷を滅ぼしたなごりと考えられます。つぎは一世紀から七世紀までで、特に五〜七世紀は五胡一六国から南北朝にかけての戦乱です。 三五〇B.C.を頂点とする秦が周辺の国々を征服する混乱は、日本の弥生時代が開かれるきっかけとなりました。秦が計量制度を公布して五〇年たった一七一B.C.に世の中が最も安定していました。一二八B.C.にピークがみられますが、文献によると一二九〜一二五B.C.にかけて匈奴が侵入しております。 横田 日本ではどうでしょうか。 岩田 一七〇年に古代日本で最大の山が見られます。中国の文献によれば一四六〜一八九年に倭国の大乱があったとされています。その他の山→多くの説があり比較困難です。
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中国から朝鮮・日本への渡来 |
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横田 ものさしが中国から日本に渡来するのに何年かかったのでしょうか。
岩田 厳密な意味での渡来年数はわかりません。朝鮮半島まで含めて、大陸の端から日本列島までは数日間から数ヶ月あればよいと思います。ある長さのものさしが中国の遺跡で使われており、これが日本の遺跡で使われた年代の差は、中国全体の平均値と日本全体の平均値をくらべてみますと、四〇〇〇B.C.で三〇七年、一〇〇〇B.C.で二二四年、六〇〇年で五一年かかったことになります。
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日本のものさし |
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横田 日本のものさしは七〇〇年から一八〇〇年までにどれだけ伸びたのでしょうか。
岩田 七〇〇年では二九・七cm、一八〇〇年で三〇・三cmなので、一一〇〇年間に六mmしか伸びていません。一年間に〇・〇〇五mmの伸び率です。中国の二大動乱と比較すると、最初の殷周革命は日本の一四倍、南北朝の動乱は一一四倍になります。念のため中国の長さと比較すると、七〇〇年で二九・九cm、一八〇〇年で三一・四cmなので、その差は一・五cmとなり、伸び率は〇・〇一四mm、日本の二・七倍です。 横田 鯨尺とはどういうものでしょうか。 岩田 裁縫に使用するものさしで、江戸時代は曲尺の一尺二寸五分を一〇等分しております。文献上では一四九〇(延徳二)年の「鯨の物指」が最古の文字です。最近平泉の柳之御所跡遺跡から一一八九年以前と考えられる曲尺の一・二七六尺を一〇等分したものが出土しました。
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日本のます |
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横田 日本のますはいつ頃から使われていたのでしょうか。
岩田 四角な形をした(方形)ますは八世紀から出土しております。縄文時代や弥生時代でも、大量の土器を使用していました。穀物や水を貯蔵し分配するのにこれらの土器を使っていた筈です。断面図から容量が計算できるので、速やかな実行が望まれます。
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日本のはかり |
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横田 日本のはかりの起源は。
岩田 中国では紀元前五世紀から最も精度の高い天びんが使われております。しかし中国における天びんの歴史はこれより一〇〇〇年から二〇〇〇年はさかのぼるかも知れません。中国で棒はかりが発明されたのは、諸説はありますが紀元前後であると思われます。
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日本の分銅 |
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横田 日本の分銅の起源は。 岩田 分銅は天びんと一緒に使用する質量の標準となるもので、棒はかりの目盛をきめるためにも用います。
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日本の漢方薬の薬用量 |
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横田 漢方薬の薬用量はどう変化したのでしょうか。
岩田 分銅の質量は中国の南北朝の戦乱で、三世紀の頃の質量の三倍になりました。そこで唐は今までのものを小両、三倍のものを大両と呼んで区別し、日本もそれにならいました。人間の体格はこの間ほとんど変化がなかったので、薬用量は小両を使用することになりました。
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計量史の研究分野 |
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横田 計量の歴史を研究するにはどんな方法があるのでしょうか。
岩田 一言ではいえない位多くの種類があります。一つは計量器です。ものさし、ます、はかりをはじめ、電気、光、熱、音、放射線など、あらゆる物のすがたやエネルギーをはかる器具を、その発生の源までさかのぼって研究することです。また計量に関係する法令、日本でいえば大宝令(七〇一年)、延喜式(延喜五年、九二七年)をはじめ計量法(平成五年十一月一日、一九九三年)に至る各種のものを調査することも重要です。さらに絵画、彫刻などの美術品、詩歌、小説、物語、随筆などの文学作品にあらわれた人類の計る行為の研究も重要であります。そして人によってはかられた宇宙から素粒子に至るあらゆるものから研究することも忘れてはならないでしょう。
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文明は計ることから始まった |
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横田 最近の計量史の研究から何がわかったのでしょうか。
岩田 一〇年前まで計量器が出土しないと、それ以前の計量史についてはわからなかったのです。中国大陸では紀元前四〇〇〇年ごろの住居址の柱が一定間隔に並べられているので、長さの単位があったのではないかと考えられておりました。
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現代日本の計量に関する問題点 |
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横田 現代の日本の計量に関する問題として考えられることは何でしょうか。
岩田 省略ということで、二つに分けて考えられます。 |
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会長:岩田重雄、 副会長:高田誠二
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