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日本計量新報 2013年3月3日 (2955号)1面および5面掲載

東日本大震災から2年後の現状を見る(1)

復旧した女川漁港トラックスケール

新設備はトラックスケールと卸売市場

震東日本大震災から2年が過ぎようとしている。日本計量新報は1年目にも、現地に入って復興状況を報じたが、今回も宮城県女川漁港に入った。

サンマ漁にあわせ設置

宮城県女川町の女川漁港の岸辺では若いカモメがまどろんでいる。向こうには役場と街があった土地が広がり、そこには人気がない。漁港の鉄骨造りの施設は2年前にあった場所にあるが人は動いていない。
 女川漁港の新しい設備は、鉄骨材料を使った大型ハカリのトラックスケールとプレハブ造りの女川町地方卸売市場の建物の二つである。ともに2年前の2011年3月11日に発生した大津波で破損。トラックスケールは大津波のあった年の秋9月に、サンマ漁にあわせて代替品が設置された。女川町地方卸売市場の建物の建設時期は確認できなかった。
 女川漁港はサンマの水揚げで日本有数の漁港で、サンマの昆布巻きなど魚介類の加工事業者が多い。市場が機能するときにハカリが必要である。魚市場でハカリが動いているときは魚の水揚げのときであり、モノが動き、人が動き、お金が動いているときである。ハカリが働くことは魚市場が復興の兆しをみせ、機能していることの象徴だ。

リアス式海岸では増幅する津波

リアス式海岸では増幅する津波  日本計量新報社は大津波があった後、自動車交通がかろうじて復帰したのを機会に被災状況が著しい宮城県女川町の女川漁港に取材に走った。
 沖に腕を開いて伸ばす地形の女川湾には、津波が何倍にも膨れあがって押しよせて、リアス式海岸の地形を象徴するような入り江の小さな平地にはりつくようにつくられた家や施設を飲み込み破壊した。少しの高台につくられていた町役場の2階にまで津波は達し、海辺にあった大きな鉄筋コンクリート造り3階建ての建物をひっくり返した。

秋のサンマ漁を見込み9月には設置

浮き上がったトラックスケールの下に荷物作業用のフォークリフト車が潜り込んだ。鉄でできていて重量があっても、平たくあるいは箱形構造のトラックスケールは押しよせる津波のエネルギーによって持ち上がってしまうのである。鉄で重いはずのフォークリフトも流されてきて、トラックスケールの下に潜り込んだのであった。
  取材した日本計量新報の記者はこのようすを写真に撮り報道した。震災後2カ月ほどして東京で開かれた(一社)日本計量振興協会の総会に出席した宮城県の代表者は女川漁港のトラックスケールの状態を知っていて、これらハカリの復旧は私たち計量関係事業者の使命である、と力強く決意を表明していた。
  この人が本気になっていれば大丈夫だと頼もしさを感じていたのであるが、震災2年を1カ月と1日前にした2月10日に女川漁港を取材して、トラックスケールの設置を確認した。再建されたのは津波に襲われたその年の9月であった。秋のサンマ漁に間に合わせるためでもあった。

被災前と後の女川市街地の比較

宮城県女川町の女川漁港は津波で町が消えた。漁港に隣接して鉄筋コンクリート建てビルなどがならび賑わいのあるサンマ漁港であった。サンマをはじめとして魚の加工工場などがあるためにここで水揚げする漁船が多いからだ。女川町の人口は8千人ほど。隣にある石巻市に働きにでる人も多いが、その石巻市は津波による被災規模と被害者の数が一番多い。

【写真上】震災後の女川市街地。高台にある女川町立病院から写す。(2013年2月10撮影)
【写真下】震災前のJR石巻線女川駅の上部からの市街地方面(街の広報誌の口絵より)

 踏んだり蹴ったりの女川町の女川漁港付近であり、この地の賑わいを示す町の広報誌の口絵を現在の写真と並べて比較すると、あった建物が消えてしまっていることがわかる。被災直後には流されたり、倒壊している家屋が道路を塞いでいて、被災前の賑わいを伝えていた。家屋や施設が瓦礫として処理された跡にみえるのは道路と漁協の建物だけである。綺麗さっぱりとして涼しくなりすぎた町の現状を初めてみる人は、荒れ果てたいうことよりも随分とさびれた町であると思うことだろう。この地で記憶を残し始めた小さな子どもなども同じことだ。
 この漁港に震災後半年ほどして魚を積んだトラックを丸ごと計るトラックスケールが新設・復旧した。以前に据え付けられていたそれは津波の力で浮き上がり、その下にフォークリフトが潜り込んでいた。土台をもがれて転倒した3階建て鉄筋コンクリートビルとともに津波の威力を物語る光景の一つであった。建物の方はどうしてなのかわからないが今もそのままに残されている。
 漁港にトラックスケールを設置したのは東北地方全体を活動領域にする宮城県のハカリ事業者であり、女川町の復興は漁協の再建から始まり、その経済活動の基礎となって働くのがハカリであるという強い使命感によって、自らの営業所が2つほど大きく被災したような困難な状況下にあってもトラックスケールの設置を優先して対応した。

働くこと、生産すること、収入を得ること、生活すること

魚を獲ることは生産である。ワカメを養殖することも生産である。獲ったサンマを缶詰にする、開いて干し魚にする、昆布巻きにする、これらは生産である。こうした生産は女川では仮復旧していても被災前の状態にはほど遠い。水揚げ量が被災前の9割まで戻ったと語る漁業組合長の談話を伝えるテレビ報道がときどきある。これは本当のことだろうか。宮城県の女川漁港、岩手県の山田漁港などを取材して回っている限りではこうした報道とははるかに遠い現実を見るだけだ。
 港に係留されている漁船は被災前の半分もなくて、海に漁にでている人は少ない。そして養殖設備が以前の状態になっていないのに水揚げ量が9割まで戻るということはあり得ない。よその魚市場が閉鎖されているので特定の魚市場に水揚げが集中するからそのようになるのだろうか、それともそれは一瞬のことであったのだろうか。女川町の女川漁港に人の姿はまばらである。山田町の中心市街地部と漁港には人の姿はほとんどない。ここでは被災前のように人は働いておらず、したがって生産も以前の状態に戻っていない。生産がなければ収入もない。少ない収入に物資豊かな生活はない。狭い仮設住宅に収まる家庭用品には限度があり、そこに豊かさなど求め得ない。

日本国首相は誰もが人気取りに走る

 炭酸ガス削減を国連の場で熱弁をふるった鳩山イニシアティブは、鳩山由紀夫氏が首相の任にいま現在あったとすると、原発事故との関連でどのように説明するのか。民主党政権が誕生し何かができると熱病にうかされたように誰が書いたかわからない文書を国連その他で読み上げた鳩山首相(以下、いずれも当時)は、米軍施設に関係して「最低でも県外」と述べ、「腹案がある」とまことしやかに語ったために退陣することになった。政党政治は民主政治の常道であるとしても、そこには人気取りのための大衆迎合がついてまわる。
 菅直人首相は、なまじっか原子力とその発電方式を聞きかじったことはあっても、素人の領域を一歩もでない知識を振り回して、事故現場を指揮しようとした。事態の深刻さをどのくらい理解していたのかは別にして枝野幸男官房長官は「直ちに健康に影響はない」というアナウンスを繰り返した。無難であるが論拠もない言葉であり、原子炉事故が最悪の状態になるとこの日本がどうなったかわからない。その小さな証明が事故現場から20km圏外にある福島県飯舘村の放射能高濃度汚染である。
 原発事故対応で人気回復を目論んだ菅直人首相は行かなくてもよい事故現場に乗り込むことにして、作業服を着てヘリコプターに乗り込む場面をテレビカメラに写させた。これが演技でなくて何なのか。財務大臣の職にあったころに財務省管理用に財政の緊迫状況の説明を受け、それだけが頭にこびりついていた菅首相は愚かにも消費税10%論をぶったために直後の参議院選挙で大敗した。官僚に強面で対応しているようにみえても実際には手中に取り込まれていることを物語るのが菅首相と野田佳彦首相の消費税10%論である。それ以外に日本の財政運営の道がないと思わされて、このことに縛られてしまうのである。 全村避難をしている飯舘村のようすを見ればその異常さに唖然とする。活断層の上に建設された原子力発電所があるのに、そこに活断層がないことにしてしまう政府委員会の誤魔化しぶりには呆れてしまう。明治のころ、帝国大学理学部教授の田中館愛橘と助教授の長岡半太郎らは地震の調査を理学部を挙げておこなっている。地震が起こるのはしかたないがその被害をいかにして小さくするかが大事だと、田中館は述べていて、国に防災対策の組織をつくらせている。田中館と長岡の門下生の寺田寅彦はのちに東京帝国大理科大学教授となり、理化学研究所研究員、 東京帝国大学地震研究所所員を兼務していて、関東大震災に際して「天災は忘れたころにやってくる」という意味の言葉を周囲の者に語っていたことをが伝えられている。
 嘘をつく委員会、原発は安全だと決めてしまう原発村などとは無縁の科学主義とその思想が明治のころの日本にあった。田中館と長岡は共に国際度量衡委員を務めている。
 安倍晋三首相は原発存続を言い続けている。嘘をつく電力会社、嘘で固められた原子力村はそのまま残っているし、新しい委員会だってその権限に十分さはない。政府は物事を隠し実質上嘘をつくから、原子力発電が安全性を全うするとは思われない。安倍首相は放射線汚染によって苦しめられている人々や、原子力発電の実態を知るに及んで原子力発電の継続をすることができるか。

震災復興、政府への要求度合い三番目に落ちる

安倍内閣の政策課題への国民の要求項目の第一番が経済であり、震災復旧は三番目に位置する。要求度合いは15%ほどであり、震災から2年が経過したこともあって関心は低下している。青森県の八戸市から千葉県の浦安市までが地震と津波などによる被害を受たのが2011年3月11日に発生した東日本大震災である。東京都町田市でも地震による駐車場建物の落下などで死亡事故が発生している。あれほど、おののいた原発事故による被害も忘却の彼方に追いやられかねない。東京電力福島第一発電所の20km圏は今なお立ち入り禁止区域であり、警察が道路を閉鎖して警備している。

YouTubeで関連動画公開中!http://youtu.be/hicA-56hCy0 (「東日本大震災」)


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