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日本計量新報 2007年7月1日 (2681号)より掲載

私の履歴書 安斎 正一  

社団法人築地市場協会 計量士

連載第1回【日本計量新報2681号 2007年(H19)7月1日発行 7面掲載】

本欄の執筆をなぜ私が?

「私の履歴書」執筆者五代目拝命に恐縮 

2005年初夏のある日、本紙の横田社長から突然「私の履歴書」の執筆を要請されたのです。

 この年の1月、東京計量士会新年交歓会で私の歌「計量士の心」をデビュー発表したのをきっかけに2月に奈良県新公会堂で開催された第三回全国計量士大会懇親会でも主催の日本計量振興協会からの要請で歌わせていただいたことにより、今までに計量界に見られなかった芸能面の面白さが受けたのか、私は執筆の要請に躊躇しながら、既に執筆された四名の先生方のお名前を聞いたとき、肩書きも勲章も無い自分がなぜ指名されるの?やっぱり執筆など出来ないダメダメダメが頭をよぎったのです。

 “あなたが自作の歌「計量士の心」を書いたユニークさを素直に書いてよ”と横田社長から諭され、暫く考えさせてくださいと言ったものの、「計量士の心」のカセットテープ発売のあのとき、紙面を大きく割いて取り上げて掲載していただいたお返しをしなくてはと胸に感じて、「私の履歴書」の執筆をお引き受けする決意をしたところです。

私の歌「計量士の心」ご愛顧の皆様への御礼

 2004年秋、考えに考えて作り上げた自ら作詞の「計量士の心」、2005年1月21日の東京計量士会の新年交歓会でデビュー発表させていただいたところ、早速23日付の本紙に掲載していただいたため、全国津々浦々の計量士の方及び計量関係の方からカセットテープの注文が舞い込み、予想を上回る多くの皆様にご愛顧いただきましたことをここに紙面をお借りしまして厚く御礼申し上げます。

 なんと言っても、お会いしたこともない方からカセットテープのお買い上げをいただいた上、「朝、計量の仕事に向かう途中、車でテープに合わせて唄いながら元気が出ます」

というコメントをいただいたとき、私の目は涙でいっぱいになりました。

小学生時代の歌への記憶

 昭和23年、私が小学2年生のとき岡晴夫の「憧れのハワイ航路」という歌が大ヒットして、毎日ラジオから流れる“晴れた空 そよぐ風”を聞きながら、大きくなったらハワイを始め世界中の国々へ行こうと小さな胸にデッカイ夢を秘めたのを憶えております。

 そして、小学5年生のとき福島県二本松地区小学校の音楽会があり、私の小学校からも出場するため音楽の安斎アヤ子先生が弾くオルガンに合わせてひとり一人歌って、私は歌が上手いと褒められて音楽会の出場メンバーに選抜されたことも憶えております。

 あの小学生時代から既に五十数年の時が流れ、今ここに昔の思い出を辿りながら自ら作詞して歌い続けている「計量士の心」に至るまでを綴ってみようと思うところです。

 

連載第2回【日本計量新報2682号 2007年(H19)7月8日発行 7面掲載】

私の職場

築地市場へは三度目の就職

 昭和33年の春、17歳のとき故郷の福島県から東京に出て初めて就職したのが、築地市場の青果仲卸店であった。

 当時の築地市場の休市日は毎月2の付く日の三回で2日、12日、22日であったのですが、私の休日は月に一回程度で毎日早朝5時から夜の8時ごろまで働いたのです。

 二度目の就職は昭和37年9月1日、現在勤務している築地市場協会の前身の築地市場自治会に定時制高校3年生(四年遅れで19歳で入学のため、このとき既に21歳)のとき、築地市場のハカリの検査事業を始めるため助手募集に応募して就職が決まり、この日から今日まで45年間という長い長い私の計量の道へとつながっているのです。

 三度目の就職が平成15年4月1日で、先輩の長野暢夫計量士の後任として、築地市場が40年前に計量士による自主管理時代に入ってから、私は四代目の築地市場の計量士として勤務に就いたのです。

現在の築地市場の適正計量管理事業所

 現在の職場、社団法人築地市場協会は築地市場内の町会事務所のように考えていただけばわかり易いのですが、職員は7名で築地市場内の衛生、警務消防、交通そして計量管理とそれぞれの委員会組織により、関係の行政機関の指導により対応しているのです。

 私が関係する計量管理委員会は計量管理委員10名及び計量管理指導員50名により構成されており、適正計量管理事業所は1000余で約2千2百個のハカリを使用しております。

 これらの事業所を定期検査と随時検査で年に二回巡回するのです。

 40年前に計量士の助手として勤務していた当時は、魚仲卸店には刺青をチラつかせた恐い兄さんが居て“オレンチのハカリが不合格だって、よくも客の前で恥をかかしたナ”などと因縁をつけられ、恐ろしくて暫くハカリ検査を中止したことがありましたが、今はすっかり時代が変わって、どこの店でも“ご苦労さん”と言ってくれるので大変いい気持ちになります。

 現在の計量管理は、主にハカリ検査及び正量取引指導であり、事業所の巡回は計量管理指導員の立会いにより正しい計量を勧め、ハカリ検査を行っております。

 早稲田大学合気道部員アルバイト学生が20キログラムの検査用基準分銅をハカリの計量台に載せて私が合否を判定後、合格品には「社団法人築地市場協会・計量管理委員会平成○○年合格 計量士氏名」からなる合格証を貼付しております。

 

連載第3回【日本計量新報2683号 2007年(H19)7月15日発行 7面掲載】

私が生まれた日と父母兄弟について

私が生まれた日

 福島県の農家に昭和16年1月27日(旧暦の元日)の早朝、私が生まれたそうです。

 私の故郷では昭和30年ごろまで旧暦を使用していたので、私は縁起良い正月一日に生まれたということから両親は迷わず正一(しょういち)と命名したとのこと、私にとって正一という名は正直一筋というか正しさ一徹というか、生まれたときから計量士にぴったりの名のような気がしてなりません。

 1月27日について和製暦を見ますと、「国旗制定記念日」と書かれており、明治新政府は1870(明治3)年1月27日太政官布告第五七号により“日の丸”を日本の国旗として制定したとあります。

 何と言っても同じ誕生日で私にとりましても名誉なことは、世界的な天才大作曲家モーツァルトが1756年1月27日にオーストリアのザルツブルクに生まれたということです。

 2006年はモーツァルト生誕250年を祝ってテレビでモーツァルト特集番組を数多く見ることができましたことは私にも記憶に新しいところです。

 

連載第4回【日本計量新報2684号 2007年(H19)7月22日発行 7面掲載】

私が生まれた日と父母兄弟について

兄弟構成は人生に影響を及ぼすだろうか

 姉、兄、兄、兄、姉、姉、私、妹という8人兄弟の構成は、私の物静かな性格を作ったことを物語っているのです。何故なら三男兄と四男の私は八歳の年の差があったため一度も兄弟喧嘩をしたことが無く、兄姉に可愛がられて私は優しくおっとりした性格になっていったのです。

 長姉佐藤春江は、福島県在住健在で大正12年2月生まれで関東大震災のとき既に生まれていたというから驚きで、遥か遠い昔に起きたと思っていた関東大震災が今でも東京などには体験談を話される方がおられるんだなということを改めて知ったのです。

 私は小学一年生のころに近所のおじさんに“君はお稲荷さんだから偉いんだ”と言われたのですが、そのときは意味不明で何がなんだか理解できなかったのです。その数年後に大きい稲荷神社へ行ったときに初めてその謎が解けたのです。稲荷神社の参道に数多くの「正一位稲荷大明神」の旗がズラリと並んでいたからです。しかし、何故旗の一番上に自分の名前が書いてあるのかは疑問でした。

 最近、広辞苑で調べましたら【正一位】律令制で、諸巨の位階の最上級。また、神社の神階の最高位。とありました。

 

連載第5回【日本計量新報2685号 2007年(H19)7月29日発行 7面掲載】

私が生まれた日と父母兄弟について

父母への想い

 明治33年(1900年)生まれの父安斎健治は、1985年に85歳で他界しましたが、1903年生まれの母安斎ハマは、気丈に明治、大正、昭和そして平成と生き抜き、2003年11月7日に満百歳の誕生日を元気に迎え、小泉純一郎総理大臣、福島県知事、町長などから長寿の祝をいただき、車椅子に乗ってはいたが“ありがとうございます”としっかりした甲高い口調でお礼を述べていたのが昨日のように思い出されてなりません。

 百歳という目標を達成した感からかその後は急激に衰えを見せ、満百歳の誕生日から70日余で大往生したのです。

父母は芸人だったように想う

 父は、結婚式などには決まって三波春夫の「チャンチキおけさ」を歌いながら踊っていたのです。ときには母が地元福島県の代表的民謡「会津磐梯山」を甲高い声で歌って父が得意そうに踊っていたのを見たことがありました。

 こんなことから、私が歌うのは芸達者な親の血筋を引いているのかも知れません。

 

連載第6回【日本計量新報2686号 2007年(H19)8月5日発行 7面掲載】

夜間高校生と計量士との出会い

四年遅れ、19歳で定時制高校へ入学

 福島県安達郡(現在、二本松市)上川崎中学校同級生105名、当時高校への進学率は15%程度でした。

 中学を卒業すると同時に兄二人が居る東京へ出て働きながら夜学することを計画していた私は、中学卒業を控えて東京の兄に東京行きを頼んでみました。ところが、夜学を条件にしたため兄から予想もしなかった「俺達のところへ来ては駄目だ」という返事が来たのです。

 つまり、兄達の仕事は現場であり、働く場所が変わるのと労働することから、夜学は不可能と判断されたのです。そのことが私の15歳の夢を破り、お先真っ暗な時間が暫く続いたのです。

 その後は、長兄の農作業を手伝いながら、密かに東京へ出るチャンスを待つことにしたのです。

 二年後の17歳の春、遂にチャンスが到来して昭和33年3月7日、汽車で一路未知の大都会東京へと旅立ったのです。

 当時、中央区佃在住の遠い親戚の紹介で築地市場青果部の仲卸店梅村屋にお世話になることになったのです。

 この当時、築地市場から南西の高台に大きい台形のような建造物が見え、誰もが芝に電波塔を立てているんだ≠ニ言っていたのです。これが完成後に「東京タワー」になったのです。

 ところが、朝5時起床で夜8時ごろまで働き休日は一ヶ月に一日程度のため、とても夜学できる環境に無いため、またまた密かに夜学できる職場を探し始めたのです。

 築地市場での仕事は一年三ヶ月ほどで辞め、次に石川島造船所の下請会社に入ったのです。

 この会社の勤務時間は午前8時からで夜学生は定時の午後4時で帰って良いということなので、入社を決意したのですが、最初の社長訓示は造船所の現場は危険と騒音を伴うので十分に注意してほしい、しかし、怪我と難聴は付きもので聴覚障害になったら一人前と恐ろしい口調でした。

 兎に角、どんどん年ばっかり取ってしまうので早く夜学をと気ばかりが焦ってしまうのでしたが、ようやく翌年19歳の春に待ちに待った東京都立墨田工業高校定時制機械科(現在、江東区森下)に入学できたのです。

 危険の中での造船所の仕事は、大きな貨物船や防衛庁の護衛艦の製造現場で部品取り付け溶接などを行いました。夏は汗びっしょりでの作業なので皮の手袋でも電気溶接の電気がビリビリ来て、周囲では鋼板を大きなハンマーでガーンガーンと叩き、まさに耳栓を突き破って鼓膜が破れそうな環境にありました。

 もちろん、この仕事は早く辞めなければと考えるのですが、次の働き先を見つけるまではお金が無くて食べられなくなってしまうので絶対に辞められなかったのです。その後、間も無く造船所近くの石川島技術本部で夜学生アルバイト募集があったので、そこへと逃避したのですが私は18歳から20歳にかけて働いた造船所で職業的難聴をお土産にいただいてしまい、今でも小さい声の方との会話や虫の音を聞くことは苦手です。

 

連載第7回【日本計量新報2687号 2007年(H19)8月12日発行 7面掲載】

夜間高校生と計量士との出会い

計量の仕事との巡り会い

 昭和37年夏、突然、石川島技術本部で働く夜学生全員解雇の告知があり、私も途方に暮れておりましたら、運良く築地市場自治会というところで市場内のハカリの検査事業を始めるので助手になる若者を募集しているとの情報を得て、工業高校生とハカリどちらも機械だなと真っ先に面接に駆け込んだのです。

 9月1日から勤務してほしい、ハカリ検査官の計量士の手配を東京都計量検定所へ頼んでいるので、暫くあなたは市場内のハカリ実態調査をして計量器台帳を作るようと、初仕事を告げられました。

 国鉄下関機関区を定年になった計量士の安田一氏が私より6カ月遅れで来たのです。私の上司となる計量士が就任するまでの半年間に計量器台帳は出来上がり、東京都計量検定所や計量に関した情報などをかなり勉強していたように記憶しております。

 このとき、私は22歳、定時制高校三年生から四年生になろうとしていたころですが、自分がこの計量の仕事を一生涯続けようとは全く考えていないあどけなさの残る若者であったのです。

 

連載第8回【日本計量新報2688号 2007年(H19)8月26日発行 7面掲載】

大学進学と空腹の日々

大学進学と東京オリンピック開催

 昭和39年は私にとっても節目の年、高校卒業数ヶ月前の或る日職員室に呼ばれ、担任の高瀬清晃先生、数学の山本先生そして物理の江口先生から「君ならやれる」という強い進学への勧めもあって、自分には夢にも考えられなかった夜間大学へ進むことになったのです。

 私は、お金が無いので入学金も授業料も安い大学でないと行けないんですと言うと、物理の江口先生が“それじゃー私の大学なら夜間部でも良いし、授業料も安い方だよ”・・・先生の大学はどこですか?・・・飯田橋にある理科大だよ、気に入るかどうか一度下見に入ってみたらと言われたことを覚えております。

 それから約一ヵ月後、担任の先生が君の推薦入学願書を大学へ送っておいたから君は合格するだろうと告げられたのですが、心配で必死に受験勉強に取り組んでいたのです。

 一月下旬のある日に推薦入学合格通知が届いて、数年前まではせめて高校だけでもと思っていたのに、まさかの東京理科大学(U部)理学部物理学科へ進めるとは夢のような心境の日が到来したのです。

 四月に晴れて23歳で大学一年生、何故か名簿の学籍番号で私が一番であったため数学、英語、ドイツ語、物理と先生が学籍番号順に問題解答や翻訳を指名してくるのですが、最初に当てられる私の問題や翻訳は簡単だったので、先生が“ハイ正解”と言うと、クラスの多くの生徒が一番は羨ましいと言うことしきり、ここでも私は皆から名前を覚えられるということがあったのです。

 丁度、この年は東京大阪間に夢の超特急新幹線が走り、10月10日には快晴の国立競技場で東京オリンピックの開会式が挙行され、日本国中が大発展の最中にあったのです。

 

連載第9回【日本計量新報2689号 2007年(H19)9月2日発行 7面掲載】

大学進学と空腹の日々

空腹に耐える日々

 何しろ当時の月給は一万円そこそこなので、アパート家賃・授業料・電車定期代などはどうしても必要な固定費であり、切り詰めるのは食費しかない。そのため日曜日の休みは食事も休みと同じで、アパート三畳間でコッペパン一個を少しずつ分けて食べて水道の水を腹いっぱい飲んだりして空腹を癒していたのです。

 このころの私の体重はおそらく50キログラム未満だったと思うのですが、骨皮筋右衛門(ほねかわすじえもん)のような痩せ男だったので、体重を計ること及び写真を撮られることを嫌っていたため、二十歳代前半の私の写真は無いのです。

陰で支えてくれた義叔母の存在

 先に、17歳で東京へ出たとき、中央区佃在住の遠い親戚の紹介で築地市場へ就職したと記しましたが、この遠い親戚とは「私の青年期を陰で支えてくれた義叔母野地立代が居た」のです。

 私の母の弟野地忠の妻、つまり私の義理の叔母に当たりますが、夫に当たる私の叔父は海軍で出兵し、結核を患って帰還したため、昭和24年に東京で亡くなったとのことですが、この叔父についての記憶は私には薄々しかありませんでしたが、佃界隈で叔父を知っている方々は私の顔を見て“あなたは叔父様にそっくり”と異口同音で言われたことを忘れません。

 この叔母の小さなアパートに住むようになってから空腹が続く或る日、大家さんの叔母さんが日曜日なのにいい若い者が部屋に閉じこもって何しているんだと言うのです。お金が無いので休日はじっと空腹に耐えていることを話すと、若い者がそれじゃ身体を壊してしまうと心配して家へ来て食べなと、大盛りのカレーライスを腹いっぱいご馳走になった上、日曜日には家庭教師をして食費を稼ぎなさい、生徒は探してやるからと有難い提案をいただいたのです。

 そして、数日後に中学生と高校生各一名いずれも女子生徒が紹介されました。

 

連載第10回【日本計量新報2690号 2007年(H19)9月9日発行 7面掲載】

妻との出会い

三重県四日市市に関わる話

 アパートの大家さんは一人暮らしで東京都職員だったのですが、或る日私に身内について話してくれたのです。姉妹二人の妹さん夫婦が三重県四日市市で大きな鞄店を経営しており、数年に一回、東京の問屋街に最新型の流行鞄を買出しに、日本に一、二台しかない真っ赤な高級外車で来るというのです。

 そして、もし今度来たら、私を妹さん夫婦に紹介すると言うのです。

 私が大学二年・24歳の六月ごろだったと記憶する或る日、夜十時半ごろ学校からアパートの部屋へ帰ったら直ぐに、大家さんが「Aちゃん(家庭教師の生徒の女子高校生)が学校の試験中でわからないところをどうしても教えてほしいとさっきから“お兄さんまだ”と待っている」と言う。私の部屋へ寄こしてと言って、約30分、数学だったと思うのですが、問題が解けて理解もできて、“ありがとう”と言って帰って行ったのです。

 そして間も無く、大家さんから、四日市から急に妹夫婦が来ているので私を紹介するから家へ来い、と言われました。

 時刻は、既に夜十一時半ごろでしたが、「初めまして、安斎正一です。いつも叔母様にお世話になっております」と挨拶したところ、妹さん夫婦は、昼勤めて夜間大学で学び、更に帰ってから家庭教師とは、こんな稀に見る好青年と私をベタ褒めにして、この夏休みにはお姉さんと一緒に四日市へ是非来てほしいと言い、更に、鞄店には女子従業員が大勢働いていて、いい子がいるから、お嫁さんに紹介するというのです。私は、未だ未熟な勤労学生ですから女性は不要ときっぱりお断りしたのですが、これが反ってしっかりした若者と好感にとられてしまった様です。

 翌朝、既に大家さんから聞かされていた真っ赤なイギリスのMGのスポーツカーを見せられたのですが、駐車している通りを歩く人達が見たこともない外車に驚いたような顔でうしろを振り返えりながら遠ざかって行ったのを憶えています。

 

連載第11回【日本計量新報2691号 2007年(H19)9月16日発行 7面掲載】

妻との出会い

この女性が将来の妻と閃く

 夏休みに入った7月下旬に名古屋まで新幹線で、名古屋から近鉄線に乗り換えて生まれて初めて三重県に入り、四日市市諏訪栄町にある「ナガサワ鞄店」へ着いたのでした。

 大きな立派な鞄店だと見ていると、従業員を紹介するからと数名の若い女性を紹介されたのですが、その内の一人がすらっと背が高く、透き通るような美人に見えたのです。

 もしかすると、この人が私のお嫁さんに紹介すると言っていた人かも…と心臓がドキドキと高鳴りだしたのでした。

 24歳とはいえ、まだ頼りない夜学生の自分にはどうすることも出来ない現実がそこにはありました。このとき、大学を卒業したら妻子を養えるしっかりした仕事に就くことを決意したのです。

やっぱり、あの女性だった

 翌々年の2月、私の大学卒業が一カ月後に迫りこのまま築地市場で計量士の資格を取って勤めを続けようかどうするかと悩んでいたころ、四日市の鞄店の一人娘さんが埼玉県内の大学を受験するため従業員の女性(現在の妻、北川(旧姓)絢子)が随行して東京へ行くので、大学入試日の日曜日に私に道案内を頼むと言ってきたのです。どうも、大家さん姉妹が私とあの女性がゆっくり話せる時間を仕組んでくれたようです。

 しかし私は、受験生の試験中、あの女性と待合室で何時間も何を話したらいいんだろうと、悩み事が更に増えてしまったのです。

[注記]「ナガサワ鞄店」の経営者、長澤秀道氏は現在93歳で四日市市の昭和幸福村公園の経営者でもあり、奥様の憲子様89歳とお二人ともに四日市市で健在で、今も連絡をとっております。

 

連載第12回【日本計量新報2692号 2007年(H19)9月23日発行 7面掲載】

寺岡精工へ入社

不思議な僧侶の占いが百パーセント的中

 話は数カ月さかのぼり、大学卒業まで三カ月余りの年の瀬、大学卒業後の仕事について悩んでいたとき、大家さんが占いのお坊さんが来たので私に占ってもらうように勧めるのです。

 聞いてみたら、お寺の名前は忘れてしまいましたが相当な幹部のお坊さんだそうで、「透視」という占いとのことで私の占いが始まり、次に箇条書きした事項を言われたのですが、今でも百パーセント的中し続けていると不思議に思いながら、時々このお坊さんのことを思い出しているのです。

イ、あなたは、節分までは人生で最悪の年にあるため、今は何をしても決まらないのです。

ロ、しかし、節分を過ぎると一転して最良の年となり、二月中旬にはあなたのお嫁さんになる女性が現れます。

ハ、更に、三月には素晴らしい就職先が見つかり将来は世に出て安泰です。

ニ、新しい就職先は南の方になります(占い場所は中央区、就職先は大田区で南方でした)。

ホ、将来、仕事上で上司の妬みによる嫌がらせが生ずるが、賢いあなたは上手にかわします。

ヘ、歳月を重ねるほど夫婦円満の楽しい生活が続きます。

 

連載第13回【日本計量新報2693号 2007年(H19)9月30日発行 7面掲載】

寺岡精工へ入社

大学卒業一週間前のこと

 卒業式は3月20日、ところが三月初めに寺岡精工の社員が築地市場に営業に来ていたとき、私は、何の気なしに「寺岡には計量士は十人ぐらい居るのですか?」と質問したのでした。

 「会社では、社員計量士を養成しようと必死なのだが、若い社員が嫌って逃げ回って困っているのですよ。そのため東京都計量検定所を定年になった稲垣政信計量士が週二日ほど来て計量士業務をお願いしているのです」と、考えもしなかった社員計量士空白の話を聞きました。私は間髪を入れずに「あのう、私が寺岡へ就職して、もし計量士の資格を取ると言ったら、採用していただけますか」と言うと「あなたなら、鬼に金棒、今日会社に帰って取締役に話してみます」と弾んだ声で言われました。

 そして翌日、一日も早く会社に面接に来て欲しいという吉報が入ったのです。

 大学卒業日の一週間前の昭和43年3月13日に初めて寺岡精工の門をくぐり、当時の林幸信取締役・技術部長の面接を受けました。

 既に、4月1日に25名の新入社員が決まっているが、君は計量経験者として無試験で合格とするので、4月1日に新入社員として入社し、最短時間で社員計量士第一号として資格を取ってほしいと言い渡されたのでした。

当時の築地市場協会の職員の皆様へ感謝のお別れ

 あと二週間後の4月1日に寺岡精工への入社が決まりました。五年七カ月勤務した築地市場協会の皆様から恨まれてしまったら、後味の悪い退職になってしまうが、もう時間が無いので今日は心を決めて退職、と寺岡精工入社を話したのです。

 当時の恋塚寿郎事務局長と安田一計量士は、君にここで計量士になってほしいと考えていたが、君は寺岡へ行った方が出世すると言って連名で当時の寺岡武治社長宛の「推薦書」を書いてくださったのです。私は、このとき将来このような太っ腹な人間になろうと感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

連載第14回【日本計量新報2694号 2007年(H19)10月7日発行 7面掲載】

寺岡精工・計量教習所・計量士資格取得

入社して最初の仕事は、検査規程作成

 寺岡精工へ入社して配属されたのは製品検査課でしたが、最初は現場の仕事ではなく「検査規程」という社内検査の規格書を作成する仕事を与えられたのです。

 つまり、当時計量法が改正され、社内検査が義務づけられたためその社内検査の規格と検査基準書を作るということです。毎日、計量法の計量器検定検査規則の条項と社内製造製品とを調べて上司に相談しながら、三カ月ほどで目的とする「検査規程」を完成させ、東京都計量検定所へ届出したように記憶しております。

計量教習所へ入所

 入社試験を免除された代わりに計量教習所は一回で入所試験に合格しなければなりませんでした。私は計量教習所の所在地が新宿区河田町に在った最後の第三十三期の入所を目指したのです。

 東京都内在住であったことから計量教習所の場所確認もあって、入所試験願書を持って直接出向いて行って受付で応対してくれた方が矢作先生だったと思う、私の提出書類を見て、「理科大卒のあなたには入所試験を免除にしたいのだが、免除規定がないので一応入所試験を受けてください…申し訳ありません。」と冗談を言われて、願書提出は楽しかったです。

 私たちが計量教習所へ入所したころが最盛期だったようで入所試験で落ちる人がいると聞いていたので少し心配もありましたが、会社との約束通り一回で入所試験の合格通知を受け取ることができたのです。

 

連載第15回【日本計量新報2695号 2007年(H19)10月14日発行 7面掲載】

寺岡精工・計量教習所・計量士資格取得

計量教習所の思い出

 昭和43年10月に河田町最後の計量教習所生になったのです。

 計量教習所入所中にメキシコシティ・オリンピックが開催され、昼休み時間の休憩時間に入ると同時に木造建物4階の教習室から地下の食堂までドタドタドタと一斉に階段を駆け下りて三宅義信選手の重量挙げのテレビを見ながら食事したのをうっすらと記憶しております。

 入所から二カ月後の12月だったと思い出すのですが、私と同期生の海事検定協会(東京)の木佐木健一さん(故人)それに同じく海事検定協会(名古屋)の福島威式さんの三人で大久保通りの都電で若松町から国電飯田橋駅まで一緒に帰るのですが、計量教習所から大久保通りに向かって百メートルほど歩いた道端の電柱の下に、私は四つ折の一万円札を一枚を見つけて拾い上げたのです。もし、この時私が一人だったら周囲を見渡して、交番に届けようかそれとも黙って小遣いにしてしまうか悩んだに違いないのですが、実際には海事検定協会の二人が私がお金を拾うところを見ていたのです。

 あいにく、都電若松町停留所近くに交番があったためにどうしても届け出なければならない状況に追い込まれて止む無く届け出たのです。六カ月経って落とし主が現れない場合は拾い主の私の物になることをお巡りさんが説明してくれたのです。

 当時の一万円は私にとっては大金だ、六カ月後は来年の6月だが私は4月に結婚することが決まっている。むき出しで落ちていたから、きっと落とし主は現れないだろうと考えていたのです。

 その後、計量教習所の連日の試験と結婚式などで忙しく、すっかり一万円札のことを忘れてしまっていた5月の或る日、勤務会社へ若い女性から電話がかかってきたのです。

 「私は、東京女子医大病院のインターン生の○○と申しますがこの度は一万円を届けていただいて有難うございました。私が落とし主ということを警察署で認めていただきましたので、近日中にあなたの会社にお伺いしてお礼をさせていただきます・・・。」という内容だったのです。

 それから数日後、私は仕事で一日中外出の日があり、その日に外出から帰って会社正門の受付に立ち寄ると、受付係から、「今日安斎さんにもの凄く綺麗な女性が面会に来て、これを渡してくれと封筒を預かりました。」と渡されたので、中を見ると一万円を拾っていただいたお礼の手紙と三千円が同封されていたのです。受付係は「あんな綺麗な美人は滅多に会えないよ、残念だったね・・・。」と言っていたのですが、結婚して一カ月も経たない私にとっては妻以外の女性には余り興味も無かったので、その女性の名前なども直ぐに忘れてしまったのでしたが、今になってその美人女性がどこかで医者をやっているのではと思うと、あの時の手紙を大切にしまっておけばよかったと誠に残念に思うのです。

 別件ですが、もう一つ計量教習所時代の思い出があります。同期生の中にいた、私の故郷の福島県計量検定所の沼崎要さん(現在は同所課長)は、気の毒に教習期間中に交通事故に遭われ、本来なら入院又は通院・自宅療養が必要というほど顔や頭に包帯をグルグル巻きにして授業を受けていたのです。大怪我というハンデキャップにも耐えてよく予定通りに修了まで漕ぎ着いたものと強靭な東北魂というか、頑張り屋の福島県人を見たことを忘れません。

 

連載第16回【日本計量新報2696号 2007年(H19)10月21日発行 7面掲載】

寺岡精工・計量教習所・計量士資格取得

計量士資格取得

 計量教習所を無事修了し、築地市場協会で計量士の助手として5年7カ月働いていたこと、そして寺岡精工に入社してから数カ月「検査規程」の作成をしたことなどを実務経歴書にしたためて東京都計量検定所へ提出し、計量行政審議会開催で計量士認定の時期を待ちました。

 その年の秋、計量士となり昭和44年12月25日第五二○六号として通商産業大臣大平正芳の計量士登録証を手にしたのです。

光電式はかり生産開始

 昭和44年は、私にとって人生最大の変革があったときで、計量教習所修了そしてまもなく結婚(既に噂を書いた三重県の女性と)、計量士資格取得と頑張ったのでした。

 そして、会社内では初めて光電式はかりの生産が始まり、私にとってはどのような検査を実施するかが最大の関心事でした。

 何といっても光電式はかりは今までに無いはかりのため計量法には載ってないので、社内検査の内容は自分で決めなければならなかったのです。

 市場に光電式はかりが販売され、次第に台数が増えてきたとき、計量行政官庁、計量士会はじめ計量団体そして百貨店などから「光電式はかり」を見たいと工場見学会が目白押しに殺到してきたのです。

 何故か、会社の総務部からは「計量関係者からの工場見学会窓口は君が担当だ」と指示されてしまい、全国の計量関係者に私の名前が知られる反面、計量士になったために他の社員と比べて仕事がますます忙しくなってきたのです。

 

連載第17回【日本計量新報2697号 2007年(H19)10月28日発行 7面掲載】

計量士会入会から役員35年間続く

東京計量士連合会へ28歳で入会

 私が計量士の資格を取得したという情報が会社の営業部門を通して各百貨店の計量士に伝えられたため、銀座松屋の奈良部尤さんという計量士の方から至急来るように呼ばれ、早速計量士会へ入るように言われ、東京計量士連合会へ入会すると同時期に新年交歓会が開催されたため新人入会の紹介をされたのです。

 次々と名刺交換が続き、東京の百貨店は皆が君の会社のハカリを使っているんだから君は入会と同時に役員の見習生だというようなことを言われて、次の例会や役員会のときには早目に会場へ行って机と椅子をならべたりしたのでした。

 このころの会場は、日本橋兜町の日本穀物検定協会会議室で、つい最近までお元気に活躍されておられた中山敏雄計量士が新人の私と一緒に親切に会場準備をやってくれたことを覚えております。

社団法人日本計量士会東京支部へ

 私が計量士会へ入会したその年に、社団法人日本計量士会が発足し、私達の東京計量士連合会は日本計量士会東京支部になったのです。

 最初の支部長は原善造さんで、次が岩瀬茂雄さん、榎本貞一郎さんそして奈良部尤さんと続いていったのです。

 この間の前半約二十年間は奈良部尤さんと中山敏雄さんの指示のもと、私は総務関係を続け、私より一年ほど後輩の斉藤和義さん(現在東京計量士会副会長)が会計を行い二人で力を合わせて会務を続けてきたのです。

 

連載第18回【日本計量新報2698号 2007年(H19)11月4日発行 7面掲載】

計量士会入会から役員35年間続く

計量士会通知宛名書きにパソコン登場

 昭和55年ごろ、秋葉原電気街で若者の間でマイコン(当初パソコンをマイコンと呼んでいた)人気が高まっているというテレビを見て、私もコンピューターに激しく心を惹かれたのです。

 勿論、まだ一般家庭どころか会社でも開発技術関係者しかコンピューターを知らない当時、妻に無理を言って、「本体27万円、ソフト5万円、プリンター14万円、合計46万円」もした夢のコンピューターを購入したのです。

 コンピューター雑誌を見ながらベーシックという言語で自分でプログラムを作ることに食事も後回しにするほど夢中になったころがありましたが、このころの努力が10年後に会社の社員全員がパソコンを持たされ、50歳でもスンナリと社員間でのメール交換も出来たことに繋がったのです。

 計量士会の役員の私は、例会や総会などの会員への通知発送担当であったため、至急の通知は妻にも手伝わせて夜中の2時ごろまでかかって宛名書きをして、朝一番に投函していたのでした。

 そこで、自宅のパソコンに百数十名の会員住所氏名をインプットして、ハガキやラベルへの宛名書きを始めたのです。暫くはカタカナでしたが当時は銀行からの通知などもカタカナ印刷でしたので計量関係では画期的な出来事だったと、よく奈良部支部長から褒められたものでした。

 

連載第19回【日本計量新報2699号 2007年(H19)11月11日発行 7面掲載】

計量士会入会から役員35年間続く

東京計量士会会報創刊号の編集責任者拝命

 平成に入って間も無く計量法大改正の作業が始まり、私は勤務する寺岡精工から会社代表として計量法改正会議に出るようになり、この作業部会などが増えて忙しくなってきたため計量士会へ出席することが出来なくなり、奈良部支部長に頼んで計量士会役員の会務を大内英夫さんに代わっていただきました。

 年月は飛びますが、東京計量士会の奈良部会長が思いもしなかった病に倒れられ、後任に白石清会長になったとき、会報を創刊することになり私が初代会報部長を拝命したのです。

 会報部員は、書き物の記事も編集も素人ばかりでしたが、皆で協力して何とか曲がりなりにも創刊号から三号まで一年間の編集責任者を務めさせていただき、会員の皆様有難うございました。

寺岡精工CIは「新しい常識を創造する」

自分のパイを焼こう

 CI(Corporate Identity)とは、企業イメージを統合化することを意味するものであります。

 私は、寺岡精工で多くを学ぶことができたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

 とにかく、寺岡和治社長は仕事に活かせるアイデアを好み、人まねを嫌い、自分が食べるパイは自分で焼けというのです。つまり、自分の仕事は自分で工夫してより一層効果を上げよということなのですが、私も寺岡精工勤務中に改善提案して仕事に活かしたアイデアがあります。

 

連載第20回【日本計量新報2700号 2007年(H19)11月18日発行 7面掲載】

寺岡精工CIは「新しい常識を創造する」

 提案当初は画期的なアイデアとして新鮮で貴重ですが、やがて仕事の中に定着してしまいますとそれは常識になってしまいます。これが正に“新しい常識”なのです。

 私が仕事に活かしたアイデアの事例を簡単に紹介しますが、現在も後輩たちが使っています。

仕事に活かしたアイデアの事例

(1)世界各国・各都市の重力補正値一覧表を作成

 当時は、電気抵抗線式はかりが世界各国へ輸出されるようになり、それぞれの国や都市向けに重力補正して出荷するために必要と判断して、理科年表地学部「国際測地基準網一九六七の重力式」を利用してパソコンで世界中の重力補正一覧表を作成したのです。

 標高が特異なメキシコシティなどは標高を補正して計算したのです。

(2)内容を申し上げることはできませんが、郵便局窓口のポスタルスケールに関しては数々の計量技術的な提案をして現在も活かされている案件があります。

(3)今から十数年前のことですが計量法改正後、電気式はかりでは「多目量はかり」なるものが主流を占め複雑な検定公差や使用公差を記憶することが困難になったため、「ひょう量と目量をインプットすればたちまち目で見る検定公差グラフ、及び使用公差グラフができる」というようなことも提案したのです。

 

連載第21回【日本計量新報2701号 2007年(H19)11月25日発行 7面掲載】

寺岡精工CIは「新しい常識を創造する」

エクセレントカンパニー寺岡精工

 今から二十年ほど前のこと、風邪を引いて自宅近くの病院窓口へ健康保険証を出した途端、受付の女性が「先生、週刊誌の優秀社員が見えました。」と言い、奥から院長先生が出てきて、「あなたの会社のことを週刊誌で読みましたよ、給料とボーナスはどのくらいですか、どんな仕事をしているのですか。」などと矢継ぎ早に質問攻めに会ったことがありました。

 その週刊誌を私は見たことがなかったのですが、「小粒だが、ピリッと締まった優秀社員の優良企業」と給料やボーナスがかなり高いというような記事が載っていたようです。

 2005年5月に日本経団連が発表したこの夏の鉄鋼のボーナス初の百万円台という新聞の見出しを思い出したのですが、私は知人から「男、一生に一度でいいから百万円のボーナスを貰ってみたいものだ」と言われたことがあります。

 実は、私は寺岡精工社員当時、何度となく百万円を超える夢をかなえさせていただきました。

 社員の海外旅行では、シンガポール、タイランド、ハワイ二回、北京と計五回も連れて行っていただきました。

 とにかく、他の会社より仕事は厳しいかも知れませんが、寺岡社長は、一番苦労している社員の努力に精一杯報いてやりたいというこころ配りがあるため、やり甲斐ある会社に対して社員が一丸になって、サッカー選手が一つのボールを必死に追うように今日も社員の皆さんの奮闘が続いていることでしょう。

 

連載第22回【日本計量新報2702号 2007年(H19)12月2日発行 7面掲載】

思い出に残る出来事

人命救助…お手柄少年安斎正一君(1)(昭和28年福島民報掲載)

 私が福島県安達郡上川崎中学一年生のときのこと、当時農村の中学生は農繁休業といって、農業の繁忙期の六月の田植え・麦刈り時期に一週間、十月の稲刈り時期に一週間、それぞれ学校が休みになって自分の家の手伝いをしたのです。ただし夏休みは7月25日から8月20日までと短かくなりました。

 昭和28年6月15日午後4時過ぎの出来事、私は家から500mほど離れた麦畑で麦刈りの手伝いをしていたのですが、農具不足のため家へ農具取りに戻ったそのとき当時三歳の男の子がヨチヨチと私に駆け寄って来て、「お友だちが荒井戸に落ちた」というので家から30mほどの荒井戸に走って行ってみると、白く濁った2m四方の真ん中に衣服の裾がかすかに見えて動きません。私はとっさに向こう岸にある1・5mほどの丸太に気づき、その先で水中を探ったら溺れている子供の身体に触れ、そして向こう岸へグイッと押しやりました。急いで子供を引き上げて土手の草むらに仰向けに置いたら、紫色というか青白い顔をして、私は死んでると直感したのです。溺れたのは近所の二歳の男の子でした。私は大声で「子供が井戸に落ちた」と近所中に聞こえるように叫び続けながらその男の子の家へ全速力で走って母親に知らせたところ、母親は気が狂ったように何かを叫びながら右往左往したのを忘れられません。

 

連載第23回【日本計量新報2703号 2007年(H19)12月9日発行 7面掲載】

思い出に残る出来事

人命救助…お手柄少年安斎正一君(2)(昭和28年福島民報掲載)

近所の人達が大勢集まり、そこへ井戸に落ちた男の子の父親が駆けつけ、いきなり男の子の両足を一本ずつ両肩にのせてグルグルと遠心分離するように回転すること十回ほど、そして男の子を地面に置いて胸に両手を当ててゆっくりと繰り返して押していました。この手法を約十五分間何度か繰り返しました。父親は「もう駄目か」と呟きながら諦めきれないように続けていたその時、男の子の口からアーアーという声と同時にガバーと大量の水を吐き出したので「助かる」と誰もが叫びました。近所の二十歳のお兄さんが自転車で五キロメートルも走って医者を呼びに行きました。

翌日晴天の朝、男の子は、父親に連れられて「ありがとう」と私に元気なお礼の挨拶にきたのです。

父親に聞いてみると、兵隊で「人工呼吸」の訓練を受けたことがあり、それを実行してみたとのこと、私はこのとき初めて人工呼吸ということを知ったのです。

その父親は、「私を自分の子供の命の恩人」と中学校、警察署それに新聞社へと知らせたため、私は子供を救い上げたときの状況を何度もやり、写真まで撮られたりして、当時の福島民報だったと思いますが、「お手柄少年安斎正一君溺死寸前の子供を救う」という見出しで掲載され、二本松警察署長から人命救助で表彰され、当時は村中の模範少年として有名になったのです。

連載第24回【日本計量新報2704号 2007年(H19)12月16日発行 7面掲載】

思い出に残る出来事

君は大きくなったら、偉い人になる

初めて中学生になった春、校長は竹村武先生であり、歴史を習う先生でもありました。初めての歴史の授業時間のとき、一人ずつ名前を呼ぶから顔を見せろと言って、生徒一人ひとりにコメントしながら私の番になったとき、校長先生は私の顔をじっと見て「君は大きくなったら偉い人になる」と言ったのです。そしてそれから数カ月後に学校の廊下で校長先生に出会って軽く会釈して通過しようとしたその時、校長先生は「君っ」と私を呼び止め「君は大きくなったら偉い人になる」と以前の授業のときと全く同じことを言われたのです。

 私は計量士になった現在、偉い人になったとは思っておりませんが、君は偉い人になるというあのときの校長先生の言葉は、普通の人以上に努力するようにと言われたような気がして今も忘れずに覚えており、私に頑張れと偉大な力を与えてくださったように思うのです。

築地市場へ三回目の就職……私は強い星を持って生まれてきたのか?

先述したのですが、現在私は築地市場へは三回目の就職、前職場の寺岡精工は六十二歳で退職することになり、退職後どうするかを思案中に築地市場の前計量士から交代要請の連絡が入り、勿論即答で「喜んでお受けします」と答えました。なんて私は強い星を持って生まれてきたのかと不思議なことがあるものだと今でも思い続けているところです。

連載第25回【日本計量新報2705号第2部 2008年(H20)1月1日発行 13面掲載】

内外の友

セブン銀行社長安斎隆氏は私と同郷、同級、同姓の仲

 イトーヨーカ堂とセブンイレブンの店舗内にATMを置いて顧客の便利さになっていることは、多くの皆様がご存知のことですが、このセブン銀行(旧アイワイバンク銀行)の創設に尽力し見事な経営を続けている安斎隆社長は私と福島県安達郡上川崎村立上川崎中学校の同級生なのです。

 安斎隆社長は中学生当時、上川崎村長の孫で村でも格式ある家柄の出で同級生105名の中でも断然一番の優等生でした。一方私は物静かで目立たない生徒で成績は中くらいだったのです。

 中学卒業後、安斎隆社長は地元の高校から東北大へ進み、日本銀行へ入行したのです。

 私は、二年間故郷で父母と長兄の農業手伝いをした後、17歳で東京へ旅立ったのです。

 月日は過ぎて、私達も38歳になり子育ても一段落したとき、中学卒業後初めてのクラス会開催の通知が届き、懐かしく故郷近くの福島県岳温泉のホテル会場に着きました。「安斎隆君は東北大から日銀に入り、今は日銀新潟支店長になっており、今日出席しますよ…」と聞かされたとき東京方面から会場入りした同級生は一同に驚いてしまったのです。

 私は、このクラス会のとき自分も苦労して高校と大学を夜学で卒業したんだと心の中で呟きましたが、高校進学率が15%のそのときは大卒は安斎隆君一人しかいないことになっていたので、このクラス会の場で私が何も改めて大卒を宣言する必要もないため、今現在でも中学同級生の大部分は私を皆と同じく中卒と思っているのです。

 しかし、安斎隆社長を日本計量士会の計量ジャーナルに紹介したとき、東京駅近くの当時のアイワイバンク銀行本社に安斎隆社長を訪ね、私が計量士になるまでの話をしたところ、「正一君は私より遥かに素晴らしい仕事をしてきた」と中学時代の同級生から初めて私の努力を称えられたのです。

 そして、私の歌「計量士の心」を安斎隆社長に紹介したところ、昔の小さい村の同級生が良くやってくれたと心から拍手してくれて、もう少し若かったら歌手の後援会会長を引き受けたのにと冗談を言い合ったりしているところです。

連載第26回【日本計量新報2706号 2008年(H20)1月13日発行 7面掲載】

アメリカ、マレーシア、オーストラリア、カナダ、香港に友あり

 私達夫婦は、1988年から海外旅行を始めて既に三十数回を数えますが、海外旅行中に現地で出会った外国人などとお友達になり二十年近くもの間お付き合いが続いているのです。

 何しろ、我が家に食事に来たり、泊まったりした外国人はアメリカ、中国、オーストラリア、マレーシア、香港などの人達で、アメリカから黒人の女性も来られました。マレーシアの女性ミス・アイビータンは現地の日本語観光ガイドですが、彼女が25歳のときにマレーシア・ジョホールバルで初めて会ってから既に15年間に5、6回会っており、2005年4月5日に日本の花見に来て我が家に泊まっていきました。

 オーストラリア・ゴールドコーストのミスター・ジョンは日本に来たときにビヤホールで2000円でのビール飲み放題がすっかり気に入り大ジョッキで5杯も飲んじゃうから凄い、こんなのオーストラリアでは無いと言います。考えてみるとこのビール飲み放題は日本人なら大ジョッキ2杯がいいところと計算して2000円に設定しているため、外国人の飲む量では採算が合わないのです。そのため最近はビール飲み放題には外国人お断りという店もあるとのことです。

 アメリカのオハイオ州クリーブランドとフロリダそれにカナダ・バンクーバーと香港の友人も我が家に泊まったことがあり、通常はインターネット・メールで連絡を取り合っております。

 日本人は、外国人から「家へいらっしゃい」などと誘われても簡単に応じないのが普通ですが、日本人と違って外国人は「家へ遊びに来なさい」などと言うと「サンキュー」と言って喜んで直ぐ来てしまうことがありますので、軽はずみでは言わないように注意が必要なのです。

連載第27回【日本計量新報2707号 2008年(H20)1月20日発行 7面掲載】

米兵との出会いに思わず涙

日本人は甘い

 1990年5月に妻と妻の両親を伴ってハワイ旅行をしたとき、元日本軍人であった妻の父からの要望もあって真珠湾に参拝に行くことになりました。

 真珠湾遊覧船には約百名の乗客が乗り合わせ、アメリカ人と日本人の乗客は半々ぐらいでした。

 遊覧船が出帆すると間もなく「ビァー、ビァー」とビール売りが来たので私達もビールを飲みながらのんびりと真珠湾の景色を眺めながらスピーカーから流れるガイドの説明を聞いていました。ガイドは先に英語で説明し、その後日本語と続いたのですが、次第に日本空軍の真珠湾攻撃の状況を英語説明に入ったとき船内乗客の雰囲気が豹変したのです。

 アメリカ人は一斉に起立して胸に手を当てて祈っているように見えたので、日本人も思わずビール飲みを止めてそれに続いたのでした。

 私には激しい英語口調での説明「ジャパニーズ#☆△−」いわゆる日本空軍のゼロ戦がダイアモンドヘッド方面から急襲してきたと言っていることが、手にとるようにわかったのです。

 確かにこの時、周辺を見渡すと手にビールや食べ物を持っているのは日本人だけで、アメリカ人は最初からお墓参りに来るような敬虔な心構えで来ていたのです。

 それに比べて日本人は、観光気分が優先して飲み食い気分で行ってしまったことを恥ずかしく感じて、自分を含めて“日本人は甘い”と悲痛な反省をしたのです。

連載第28回【日本計量新報2707号 2008年(H20)1月27日発行 7面掲載】

朝鮮半島停戦ラインの最前線に赴任する米兵との出会い

 2003年8月アラスカ旅行の帰路アメリカ・ポートランドを経由したときに私の右隣に身長が2メートルもあろうかと思われる20歳ぐらいの黒人の大男が座っていました。

 旅は道づれと隣の黒人に持ち合わせた日本のお菓子を勧めながら下手な英語で話し掛けてみました。バスケットボールで有名なマイケル・ジョーダンに似てますね…と冗談まじりで言ったつもりでしたが、黒人は意外と暗い表情で言葉少なでした。

 その後暫くしてから、「貴方の職業は何ですか」と訊ねてみました。その時、彼はアメリカ軍人で、「これから一年間朝鮮半島停戦ラインの板門店などの最前線に赴任するので、成田を経由して韓国の仁川(インチョン)に向かうところで、かなりナーバスになっていて申し訳ありません」と言ってきたのです。私は思わず彼のあどけなさの残る横顔を見た途端に涙が溢れてしまい、膝に掛けていたブランケットを頭からスッポリ被って約30分間涙が止まるまで眠った振りをしていて、涙が一段落した後に左座席の妻に事情を説明したのです。

 私達日本人には現在徴兵制度も無く、子供のころにあった戦争のことも忘れてしまった私が美味しいお酒を飲みながら海外旅行をしている間にも、このように誰も行きたくない戦場に命がけで行かなければならないアメリカの若者がいることを知って、隣席のこの若者に何ひとつ労(ねぎら)いの言葉も掛けられない自分の気持ちがたまらなかったのです。

 やがて成田空港に到着して、私達が到着ゲートへ急いでいたときにあの米兵が若いアメリカ人女性と笑顔で対面している光景に直面し、その女性が彼の彼女なのか韓国から出迎えに来た女性なのかは知る由もありませんでしたが、その光景が何か私をホッとした気持ちにさせてくれたのでした。

(社団法人築地市場協会、計量士)

(つづく)

 

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