|戻る|ホーム|次へ

  since 7/7/2002

私の履歴書 齊藤勝夫(第18回計量賞受賞者、元千葉県計量検定所長、元流山市助役、現千葉県計量協会・計量士会会長)                 

私の歩んだ道−公務員として信念を持って

第3編 新しい夜明け、計量法の歩み

悪質な違法行為には容赦なく立入検査

 さてさて、計量法施行のもとでの計量検定所として所管所掌している業務は、計量器の検定、計量器の検査、これには大別して、定期検査と計量証明事業用計量器の検査(毎年1回検査)に、立入検査、これまた検査目的別に定期検査の脱検、製造・修理事業の無許可業者への立入などがあるが、特にさまざまの入知恵情報、とりわけ、正規の販売許可事業者や計量協会の県内各支部からの無許可販売者の通報情報伝達が、さまざまの時期やルートから寄せられ、違法行為のため放置はできない。初動が不可欠で計量検定所の信頼感と存在価値の増大につながるか、逆に不信感を惹起し誘発せしめるか、行政機関の力試しそのものである。一罰百戒を所員に訓示し、ためらうことなく悪質な聞く耳を持たぬの態度をもつ者は、容赦することなく立入検査権を行使し、ケースによっては刑事訴訟法第239条第2項の告発権を行う構えで臨むことにし、かつ、ときには実際に計量検定所を所管する商工担当部長の宥めも、正義感と論理をふりかざして振り切り、告発をすることもあった。
 要するに計量の制度は国の統治権にもとづく、貨幣の制度と同じく国の根幹の事務であり、これを冒すことは社会秩序を乱す行為そのもので、国も社会も維持できない悪そのものという認識をもっていたのである。

事務量が一挙に増大

検査そのものの類別はかくのように分けられてもその手法は、基本的には、公権力をもって適法に計量法の法目的を具現せんと、常に使命感をもって違法状態は排除するという手法で行う尽きることのない戦いなのであり、国民の生活を守るためと信じて職務にあたったのである。さらに製造、修理及び販売の事業規制からくる許認可事務があり、計量法になって規制対象法定計量器の範疇が広がったため著増し、人口増加は許認可事務の増加に連動したのである。

もはや検定所の新設以外に道はない

ここまで述べたのは、計量法の仕組みからくる計量検定所の所管事務の必然的増加も、法定業務の確実な実施をいかにこなすか所長の任務に、さらに重なって脊負う重荷となってきたのである。最早や、所員の増員と施設増強と同時に成就させる道は、やり方は説得力ある解決策は、地方自治法別表5に掲げられた必置機関の義務規定を錦の御旗にして、取り巻く渦のように押し寄せる業務の拡大の次々の要因を、計数をもって分かり易く分析し、人と設備の所要数を5年単位で、10年から20年先まで弾き出し、つくれるデータを基にして、とどのつまり、計量検定所の新築以外にないと、人事と財政当局に、資料を積み重ねて説明説得をし出した。
反応はすぐにきた。どこに建てる敷地があるか、広い敷地があるか、天祐も吾に味方し出した。所長就任時の昭和38年(1963年)の計量検定所(木造モルタル塗2階建・昭和28年建築)は敷地は床面積相当しかなく、無余地であるが県本庁には200mの至近の距離で事務所だけの利用なら絶好のビル用地になり得る一等地である。検定所移転の話しが公然と唱えられ、むしろ私自身意識して吹聴してまわった。理由は、多くの周りの県の機関が、組織が、知人が、上司が真剣に私以上に探し出すし、力を貸してくれて移転して新築することが、人事も財政も一致して認め始め、既勢の事実化すると読んだからである。

すぐに行動を開始

案の定、計量検定所の当時の主管課の振興課の課長が厚生省からの出向者で、国保会館を県庁のそばに建てたがっていた。飛んで火にいる夏の虫の如く動き回った。時も同じく、財政課の友人が、「齊藤さん関東財務部の所管地で作草部の県営住宅の隣に適切な広さの土地がある。県有地に建っている職業安定所(国の機関)の敷地と等価交換の話しがあがっている。関東財務部と話し合って割り込んでみたら」。有難いご誼託、早速に話しに入り、腹には、1〜2年後にタキシメータの走行検査を基準ローラーで定置式検定をやりたかったので、一目みて何十年先まで大丈夫と直感して、段階的に建物設備を増やしていけると踏んだ。先の先まで考察して土地選びをしなければと考えて考えての自らの決断だ。結果は、他人の力でなく自ら選択した土地だ。
 後輩に引き継いでも恥ずかしくないものでなければならない。新しい千葉県計量検定所の幕開けの実の物語である。

データを積み上げ何回もくらいつく

 さて、自らの目と将来の計量検定所のあるべき姿を、あれやこれやと本当に若輩の身であって、県庁経歴も所謂他人の飯も食べていない検定所の温室育ちの、うぶで生一本の猪突猛進の直情一筋という、こちらの理論と洞察が一番正しいと、今にして思えば、めくら蛇をおそれずとは、よく言ったものだ。
ときに、押して駄目なら引いてみな、負けるが勝ち、急がば回れ、等の諺の手練手管を使う術も知らず、修羅場をくぐっていない。唯々、データを積み上げて、何回となくくらいついて行った。よくしたもので、当時、同僚的部下に、極めて実直にして慎重、数字を共に所長の発想に緻密に手を加え、土地利用や建物の基本構想から基本設計的なことまで、その道の玄人でないにしても、人事当局や財政当局に十分説明と選択肢を与えることができる絵図が素人放なれして、その上、几帳面な人格者であり、所長の分身的存在で、信頼のおける後の真の兄弟のような関係と自負した私が、二度の所長の任をやり遂げられたのは長年、次長のような役割をした側近中の側近であり、公私にわたりお世話になった恩人の一人でもあるお方。
 その人の名は、当時私の所長のやり方に文句も、泣き言もいわず支えてくれた人、検査課長の小林一正さんであり、所長まで昇りつめた方である。
 後に二度目に所長として戻ってからは、後の知事となる沼田武副知事と私の間の意思伝達の中継役もこなせた沼田知事お気に入りの一人ともなった貴重な英材である。この人がいたからこそ難しい施設と人の増強充実の二兎を追い抜けられ、かつ昭和47年〜48年の当時の計量法の大改正に地方庁代表として7つの計量行政審議会専門部門に存分上京して働くことができたのである。

土地を10年間貸そう、との言葉引き出す

 話しをもう少し前に戻してみよう。計量検定所の新築をするに次の後輩にも恥じないものと自らの決断した国有地所轄の財務部との交渉と言うよりも、生殺与奪の権を握っている、時の総務部長への必死な執拗なお願い哀願である。会えるまで、毎日でもいく。財政課の担当者も一緒に行くときもあるが、相手は眼中敵なしのすごさ、最後の言葉「あなたの言うように、度量衡法時代から、貨幣制度と同じように、国の完全な事務だ。その第一線の計量検定所の面倒を見るのは、至極当然な国の仕事だ。良くわかった。単純にして明快な論理だ。等価交換の話しをしているが、等価が双方の納得いく額が出るのには時間がかかる。それまで待てないと言うのであれば、10年間貸すことにしよう。それでどうだ」とにもかくにも忘れられない言葉と願ってもない話しだ。もう土地に手が届くところまできた。咄嗟に頭によぎった。10年では長いようで短い。施設、建物を設置すれば最低でも30年から50年は確保しなければならない。県の財政課が、あの沼田財政課長(後の知事となるお方)が「うん」とは言わない。「有難い国からのお言葉です。計量検定所は、今の千葉県の臨海工業地帯の展開から、天井クレーン付を設置する重量物向検定用設備がどうしても必要です。それに耐えることが出来る建物は鉄筋コンクリート造りになります。全国の県が千葉県の検定所がどんな建物を建てるか見ています。部長さんの判断が全国の計量行政の行く末を決めることになります」という意味をこめて必死にくいさがった記憶がまざまざと蘇ってくる。

破格の判断で建築に目途

 暫くの時間が過ぎた記憶がある。一段と声を張り上げ「よろしい。条件をつけない。建物を建築してもよろしい。しかし、部長の権限は10年までだ。以後は更新の道がある。そのとき、どんな条件付になるか誰にもわからない。でも、鉄筋コンクリート造りでも良いといっているのだ。後の言葉は聞かないでくれ」。すべては終わった。大人のやりとりだ。国の官僚の知恵と権限行使をいやという程知らされ勉強になった。このやりとりが後日、沼田財政課長が当時としては、異例の天下分け目(それ程驚くことのない表現だ。当時昭和30年代後半、県の出先機関はすべて木造であった。財政課長の話によれば)の破格の判断をされた論拠となったのである。

計量行政は国の責務と今でも信じる

 歴史は繰り返す。私は今でも、地方分権の代となっても、地方自治万能論の時代であっても、計量行政は、根幹はまぎれもなく、国の責任ある事務であると頑なに信じ続けている。あの40年前、関東財務部の部長さんが言ったとおり。いついつまで言葉の余韻が残って忘れられない。

道は拓けた

道は拓けた。計量検定所の新築建物の敷地が、将来とも増築や附属建物や施設が建て増しできる広さも手頃であり、しかも、千葉市内で県庁から北約3kmで比較的利便性もよく、来所の県民からも、関係業界、業者の方々にとっても分かり易く、市内循環バスが頻繁に運行しているところである。
さらに、県営住宅が直近にある静かな環境で、当時、タキシメーターの定置式基準ローラーを設置して、従来の県内4ヶ所の走行コースの検査場に替わって別棟に走行検査場を、計量検定所の本庁舎を建築して完成後すぐ建てる計画を息もつく間もなく一気に貫き通す一念でいたので、むしろ、その騒音の影響を心の中で心配していた。

型破りの予算要求

国有財産の貸借契約が済み、財政課長まで建築関係予算が無傷のまま上申していった。施設・備品費が今にして思えば桁違いの大きい額で沼田財政課長まで進んできた。勿論鉄筋コンクリート造二階建の建築図面(前述の素人放れした小林検査課長作成の平面図添付)で、冷暖房用の配管も付けておいた。敷地の地形と建物の配置も、ご丁寧に翌年度要求せんとするタキシメーター検査場の平屋建も配置しておいた。冐険というか、周到というか、予算要求としては、型破りのもってゆくやり方をした。財政課の担当者段階では手に負えない、判断しかねる案件である。国有財産の貸借契約も、当時は財政課の許しがあって可能になったいわくつきの案件代物であった。

沼田財政課長との忘れられないやりとり

すべてが、財政課長の職務権限なのである。幸運そのもので、当時財政課長のお方が、後に知事になったため、私の人生や、役人の生きざままで一変して厚過と人に言えない役柄も回ってきた。正に大恩人の方である。その方とのやりとりが、後々計量行政と計量業界にも大変良い果実を贈られ、恩恵に文字通り浴すことができた。記憶に残るやりとりの一端を記して、千葉県の計量検定所の歩んだ歴史の一ページに刻んでおくことも貴重な足跡として、他山の石たる価値もあるものと信じて述べてみたい。

先ず、開口一番

「今の千葉県の財政事情は日本で数ない赤字団体から脱却して日も浅く、理屈ぬきでえ投資経費に回す金はない。ましてや、出先機関で耐久建築の鉄筋コンクリート造りはなく、すべて本造建物である。計量検定所だけ例外として認める訳にはいかない。例外が前例となって次から次と波及して建築予算を切り捨てできなくなる。しかし、もってきた以上は、鉄筋コンクリート造りでなければならない明白な理由と必要性を聞こう」
案の定切り捨てるための理由づくりにするように思える質問である。即答した。
「理由と必要性は二つです。一つは計量検定所は地方自治法別表五に掲げる都道府県の必置機関に法改正で位置づけられています。さらに千葉県政の大いなる発展策の臨海工業地帯の出現からくる重厚長大型大企業の林立からくる海外から入港してくる石炭、鉄鉱石等の原材料の計量用の各種大型計量器の検定用分銅の整備とその出入庫用の天井走行クレーンの設置は絶対必要のため、木造建物では不可能です。この理由づけによって国有財産を借りられたし、建物建築も鉄筋づくりを承認されたのです。その他検定用設備と重量備品も揃えなければなりません。行政機関としては、計量法どおり検定検査申請をしてこられれば、こちらの都合を並べたてても拒否はできません。不作為の行為は許されません」
懸命に答えた。アンローダクレーンスケール、貨車掛スケール、トラックスケール、コンベアスケール、検重車(国鉄専用)を借用しての大型はかりの検査等、次から次へ『はかり』の名称をあげた記憶がある。
財政課長が結論めいて申された。

苦しい台所事情下でもぎ取った贈り物

「大蔵省の関東財務部が了承して許してくれたからね。それを理由にして自治庁の起債許可がとれるからね。今出されている案をA案として、B、Cの三案を出してこい。冷暖房の配管は許さない。駄目だ」
「何故、駄目ですか。冷暖房設備を今すぐお願いしていません。配管だけ工事を将来やるには余計な金がかかるので建築時にやっておきたいのです」
「理由は分かるが、出先は認めないのだ。それに技術の進歩で10年後位には、良い冷暖房設備ができるかもしれない。そのとき無用の長物になるぞ。県民感情からしても県民の生活状態からも駄目だ」
「それでは、出先機関にいる職員は永久に冷暖房に巡り会えません。同じ県職員でありながら」
「理屈をいうではない。財政課長として認めることができない」
温厚な財政課長が珍しく立腹された。引き下がって時を待つことにした。私はどうしてもこのやりとりは、在世にあって一生忘れられない。しかし、新築は認められたのである。原案より後退して面積を削られてもである。結果は後輩に不自由な思いをかけることになるけれども、赤字県であった千葉県の最も苦しいときの台所事情からもぎ取った苦しい贈り物なのであった。

歴史的転換期だった

後日、私が沼田知事の命令で流山市役所に助役として赴任後二人だけで計量検定所の鉄筋コンクリート造りを例外として認められた経緯を話し合ったとき、知事があのときを契機に前年昭和37年6月災害対策基本法ができ、知事の責務として災害時のための施設整備を決められ、学校建築が災害時転用できるよう工夫し出した機を同じくして大きく変わった歴史的転換期であったと説明され、別の面から歴史の歩みを知らされ、つくづく当時を述壊し合点ができた。

3つの案を出せとの命令が

千葉県の計量検定所の戦後として2回目の新築において、当時としては、自治庁の再建団体として厳しい管理下のもとで、赤字団体から脱して日なお浅く、現代と較べて比較にならない厳しく弱い体質の財政事情の中で与えてくれたというよりも、勝ち取った鉄筋コンクリート造りの本格的建築物の庁舎として、雄々しく産声をあげることが財政課長の査定で決定した。決定した瞬間、査定時に出した実施設計の原案の図面配置図をA案として、B・C案の3案を出せとの命令が下った。
第1回目の財政課長折衝の建物関係はそこまでで、肝心の必要な部屋の種別と広さは次回送りとなった。しかし、目の前の図面より、いくら泣いても騒いでも広くとることは最早不可能となった。切られることを想定して、会議室と事務室と所長室を広めにしておいた。目算は完全に狂った。B・C案は必要な部屋は認めるが面積は減らして作図し、C案はA案の60%前後とする指示である。

どうしても削れないものがある

査定で切るのでなく、所長の私にまかせるという一見合理的、現場の声を願いを吸い上げるという姿勢である。C案では返上するしかない。そんな計量検定所では千葉県が発展し、10年先に、必ず中県から大県に伸展したとき、後悔し、洞察力のなさを天下に曝す。若気の至りと蔑まれること必定。そんな汚名を蒙ることは決してされたくないし、したくない。
特に後輩に苦境を背負わせ、役所という所は、始めに出発したら容易に現状を変えられない宿命を持っている。事務室は25名より狭くは出来ない。人員の増強が根底から崩れる。所長室をなくし、小使室もなくしてみた。会議室は、なんとしても配置図に入れてみた。検定室(圧力計・温度計浮ひょう・分銅おもり・はかり・天秤室)は形だけの狭さになる。結局C案は不能で指示された広さでだけ示したのみの白書的文字通り作図である。

分銅検定室設ける

B案は、A案より所長室をなくし県民相談室として広さを削り、会議室は30人会議室にしてみた。どんな案にしても、天井クレーン付の重量用検定室は頑なに配置して、さらに当時、軍隊用語で人海作戦という言葉があり、人間が、人力で処理する現場的手法になぞらえていたが、分銅・おもりの検定は正に朝から晩まで所員が単能的作業の悲哀に満ちた部門で、なんとしても所長として他に代える方法を探求し続けていたので南向きで比較的広い別室を他に転用できるように確保し、分銅検定室と命名し、自動検定装置を設置し、人員を他に急増する検定に振り向けることを目論んでいた。
なんとかB案をつくり、実現したとき不満が残るが、やむなく次の手を打てる余地はあるとして、まあこれで良しとする次善の案として練りあげた。苦心の策である。この分銅検定室を設けたことで、次年度破格の高額の備品費を与えられるきっかけとなったのである。

|経済産業省|産業技術総合研究所|製品評価技術基盤機構|

|戻る|ホーム|次へ

目次へ戻る