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日本計量新報 2008年5月18日 (2724号)より掲載

私の履歴書 鍋島 綾雄  

日東イシダ(株)会長、(社)日本計量振興協会顧問、前(社)宮城県計量協会会長

目次

2 鍋島家のルーツと灯篭売りの思い出 2725号・2726号掲載

鍋島という性は珍しい。幼い頃よく母に「佐賀の鍋島藩と繋がる系図があったが何代か前に旅の坊さんに持ち逃げされた」と聞かされた。佐賀鍋島藩につながるという話は眉唾(まゆつば)ものだが、鍋島家に残る古い記録に「天正10年本家に内紛があり、讃岐笠居郷に移り住んだ」とある。

天正10(1582)年と言えば長曽我部元親が讃岐の名門香西氏を滅ぼした年である。

此処から先は全く私の想像だが、先祖は土佐藩の下級武士「一領具足」の出ではないかと思われる。一領具足とは平時は農民で、田圃を耕やすときに握り飯を括りつけた槍を立て、いざという時はその槍を引っさげて岡豊城(おこうじょう)に駆けつけるという制度であった。長曽我部元親はそういう独特な軍制で四国全土を平定した。高知県にも鍋島性があるので「一領具足」ルーツ説も否定はできないと思う。

因みに長曽我部氏が滅びて山内氏になってもこの下級武士階級はそのまま残り、幕末に活躍する坂本竜馬を初め多くの維新の志士たちはこの下級武士の出身である。

いずれにしても本家には八代将軍吉宗の時代の正徳4(1714)年という位牌もあり、高松松平藩の藩制の記録に、笠居郷藤井部落の組頭(5戸の長が5人頭、25戸の長が小頭そして100戸の長が組頭)として鍋島家の名前がある。帯刀はともかく名字は許されていたことは間違いない。

小学校低学年時代はガキ大将で好き勝手をして遊んだ覚えはあるが、その中の一つに遊びではないが思い出に残っていることがある。 

戦前の田舎ではお盆の13日・14日・15日の3日間、夜になると灯篭を持って家族揃ってお墓参りをした。お墓の前に灯篭を吊るして供え、うちわを片手に隣近所の人たちと夕涼みしながら、灯篭の蝋燭の火が消えるのを待って又灯篭を持って帰り、最後の15日の晩にはその灯篭を送り火のようにお墓の広場で焼くという風習があった。

近くの親類の美代子叔母さん(父の姪に当たる人)の家で、毎年夏になるとそのお盆に供える灯篭を作っていた。小学校3年生のとき、5年生の従兄弟と二人でその灯篭を売りに行くことになった。長い竹竿に、50センチくらいの灯篭を20数個ぶら下げてそれを担いで隣村まで売りに行く。1個7銭くらいだったと思うが、小学校5年生と3年生の二人で軒並み訪問するわけだ。行く先々で「まー、こんな小さな子供が・・・感心なこと」と褒められながら買ってくれて全部売れてしまった。

二人で意気揚々と引き上げてきたら美代子叔母さんにも褒められてお駄賃(バイト代)に10銭を貰って大変嬉しかった。余程嬉しかったのか、今でもはっきり覚えている。

そのときは将来営業をやることになるとは夢にも思わなかったが、物が売れたときの喜びというか達成感を小学生のときに味わったのも不思議な因縁を感じさせられる。

(つづく)

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