日本計量新報 2008年5月18日 (2724号)より掲載私の履歴書 鍋島 綾雄 日東イシダ(株)会長、(社)日本計量振興協会顧問、前(社)宮城県計量協会会長 |
目次6 再出発 2732号高松市は昭和20年7月4日の空襲で殆ど焼けてしまったが、一駅となりの故郷鬼無は戦災を免れ、昔のままの平和な農村風景だった。戦前の農家は殆ど自給自足の生活を強いられていたのが、皮肉にも戦後の食料不足時代にはそれが強みとなって農家は食べるものも自給自足で何とかなった。「国敗れて山河あり」という言葉のとおり戦争の傷跡が余り感ぜられない、貧しくとも平和な昔のままの生活がそこには残っていた。そして何よりも世の中がひっくり返って死の重圧から解放されて自由になったという幸福感と充実感をしみじみと味わった。 小学校には小学生のときの担任の先生が校長先生になって赴任して来ていた。遊びに行くと、「教員が足りないから手伝え」と言われて半年間教壇に立ち、2年生の男女組を教えた。元々先生という職業は好きだったので、12才年下の8才の子供たちと楽しく充実した半年間を過ごした。 しかし、先生の資格を取るために今更師範学校に行く気にもならず、大学にでも入り直そうかと思ってブラブラしていたところ、昭和21年になって本家の当主義忠氏(父の甥で百十四銀行の支店長をしていた)が「うちの銀行の取引先に大変いい会社があるからその会社に入らないか」と誘ってくれた。義忠氏は幼年学校以来何かと大変世話になっており、陸士入学に際しては備前長船祐定の銘のある立派な軍刀を贈ってくれた恩人である。 熱心に誘ってくれたので断りきれず、来年3月の受験までの腰掛のつもりで行ってみようかぐらいの気持ちで面接を受けた。この会社が日本秤錘株式会社というハカリの錘を造る会社であった。 入社直後、専務に呼ばれて「先日来社された岐阜のハカリ屋さんへ礼状を書け」と言われた。幼年学校・士官学校で手紙の書き方はしっかり叩き込まれていたので、苦もなく書いて持って行ったら「これは素晴らしい、大したものだ」と褒められ逆に面食らった。 そんなことで仕事もだんだん面白くなり、専用の自転車(物資の無い当時は今の自動車に匹敵する価値があった)を支給されたりしてだんだん抜けられなくなって行った。 腰掛のつもりで入った仕事が自分の生涯の仕事になろうとは夢にも思わなかった。人生とは本当に分からないものだ。 |