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日本計量新報 2008年5月18日 (2724号)より掲載

私の履歴書 鍋島 綾雄  

日東イシダ(株)会長、(社)日本計量振興協会顧問、前(社)宮城県計量協会会長

目次

9 出張で11年間毎月東京へ 2735号・2736号掲載

 1948(昭和23)年3月九州のハカリメーカーを巡る出張を命ぜられた。若造だったが名刺は営業課長で旅費は2等車(今のグリーン車)で支給された。勿論2等車には乗らず、3等車に乗って旅費を浮かせた。福岡・長崎・熊本等を廻ったが、変わった所では宮崎の飫肥まで足を伸ばした。飫肥の町に戦後一時「棒ハカリ」を作る会社があった。

 宮崎からバスで南へ海岸線を2時間程かかるのだが、その景色の素晴らしかったことが印象に残っている。どういう名前の会社で、どういう商談をしたのか覚えていない。それ以来60年間飫肥という町に行く機会もないが、テレビ等でこの町の名前が出てくると23才の頃が思い出されて妙に懐かしい。

 1949(昭和24)年になるとドッジ旋風で世の中が一気に不況になり日本秤錘としてものんびりしておられず、注文を取りながら全国を集金して廻るようになった。私は東日本を担当した。これが私の今後の運命を決めることになった。

 テレビは勿論未だ放送されていないときのことなので、東京と地方では今では想像出来ないような格差があった。東京には新しい文化の最先端があり、貧しいけれども人々は活気に満ち溢れていた。映画は勿論、俳優座・文学座・歌舞伎・新派・新国劇と花盛りで、諏訪根自子のヴァイオリンを生で聴いたり、歌舞伎座で六代目菊五郎の演技に感激し新橋演舞場で石井寛と水谷八重子の新派の舞台を見たり、杉村春子と同じ電車に乗り合わせてみたりして、自分も時代の先端を歩いている様な錯覚を抱いたものであった。

 士官学校に入るとき保証人になって頂いた同郷の大先輩松田大佐が奥さんの実家の中原家に住んでおられた。お訪ねしたところ大変歓待してくれ、それから10年余りの間、毎月東京に出るとそこに泊めて貰うことになった。この中原家の次男が茂男さんといって私と同い年だった。中々の美男子で東京農大を卒業して芸能界に飛び込み、当時のテレビの人気番組『事件記者』のレギュラーとして活躍していた。生粋の東京育ちで同年輩でもあり、すぐ仲良くなった。ハンサムな芸能人で将来を嘱望されていたが、惜しいことに早死にをしてしまった。

 又、お得意先の神田の野村製作所にも私と同年輩の昭ちゃんというお嬢さんがいて、俳優座の劇団員として活躍をされていた。チャキチャキの江戸っ子・神田娘で私を捕まえては「鍋島さんとこの社長さんは東京へ来る度違う奥さんを連れてくるよ」と言ってからかわれたものだった。

 俳優座で思い出すのは、1949(昭和24)年〜1950(昭和25)年頃、公演の初日直前に当事売り出し中の主演女優が倒れて大騒ぎになり、急遽代役に無名の女優を立てて初日の幕を開け話題になったことがあった。私もその公演を見たが、その代役の幸運を射止めた無名の女優が奈良岡朋子だった。押しも押されもせぬ大女優になった奈良岡朋子の初舞台を見たのも奇縁であったが、この初舞台を見た人の殆どは皆亡くなられて今では殆どいないのではなかろうか。

 一方、野村の昭ちゃんも渋い演技力と綺麗な東京言葉でのし上がり、『渡る世間は鬼ばかり』で大女優として貫禄十分の演技を披露してくれている。

 高松で半月、東京で半月、中原家を拠点に関東一円から東北・北海道まで歩くという生活が1959(昭和34)年まで約11年続いたわけだが、この時期は戦後の混乱から立ち直り、朝鮮動乱の特需景気を経て高度成長の入り口に差し掛かる時期であった。この時期に毎月高松から東京に出ることは極めて珍しいことであり、大変嬉しい役得であった。毎月東京の空気を吸うことで視野を広めることが出来たことと、ハカリ業界に人脈を築くことが出来たのが後に仙台で大変役に立つことになった。

 昭和20年代は戦後復興のため、鉄・石炭・食糧の三つに傾斜生産といって重点が置かれた。

 鉄・石炭の製造現場で必要とされる貨車スケール・コンベアスケール等は大和製衡・久保田鉄工の独壇場だった。大方のハカリメーカーは食糧増産に励む農家向けの棒ハカリ・台ハカリを主力に生産した。そのはかりメーカーの最大の納入先は全国各地の農協だった。戦前から昭和20年代前半まで米俵は斗枡で4斗計って入れた。枡の生産地は岐阜大垣に多かった。1951(昭和26)年頃までは米の収穫時期になると注文の1斗マスを10トン貨車で各地のハカリ屋さんに送ったものだった。それが1俵は60キロと重量になり、だんだん80キロ20貫の棒ハカリや150キロ40貫の台ハカリに代わっていった。この他に棒ハカリでは25キロ6貫・15キロ4貫・7キロ2貫の3種類が圧倒的に多かった。戦後の家庭燃料の主力は木炭だったので、炭焼きが全国各地で盛んに行われた。15キロ4貫の棒ハカリはその炭俵を計るのに飛ぶように売れた。7キロ2貫のはかりは小売用に持ち運びが便利なので、魚屋さんを始めいろいろな店で使われるため、造っても造っても間に合わないという状況だった。

(つづく)

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