日本計量新報 2008年5月18日 (2724号)より掲載私の履歴書 鍋島 綾雄 日東イシダ(株)会長、(社)日本計量振興協会顧問、前(社)宮城県計量協会会長 |
目次17 飛込み営業 2746号外販をスタートさせるに当たって、イシダから北吉さんというベテランが販売指導に来てくれた。北吉さんは延べ100日余り仙台に滞在し、セールスマンを率いて肉屋・魚屋に飛び込み訪問して実践指導をしてくれた。工場の片隅に住んでいた私たち夫婦は、朝夕北吉さんを招いて家内の手料理で食事を共にした。食卓を囲み杯を傾けながら、彼は外販について熱心に話をしてくれた。今までルート営業しか経験の無い私にとっては、軒並み飛び込み訪問の話は未知の世界で大変勉強になった。また、雑談の中で私が北吉さんに話した業界地図が、その後イシダが代理店を全国に展開する上でいくらか参考になったようだ。 1円玉の目方は1gなのでセールスには必ず1円玉を10数個持ち歩き、1円玉をハカリに載せながら下皿の感度のいいことを訴えると共に1gの損失は1円の損失と同じことなのだということを視覚で訴えた。 台秤が7千円くらいの時に下皿は2万円余りで相当高価であった。2万円の商品を現金で買える店は少なかったので、A4くらいの大きさの袋を店の奥にぶらさげておいて、それに毎日200円づつ入れてもらい、週に一度集金に行く。即ち1日200円の日掛け販売である。 リースもローンも無かった時代の販売の知恵である。集金専門の若い社員が軽自動車で毎日何十軒と回収して廻る。お陰でその若い社員は仙台の道路はどんな細い裏道でも隅から隅まで覚え、これが後年本人の貴重な財産になったものである。 20人くらいの規模の人員が外販を機にみるみる40人になり60人になって、塩釜・石巻・気仙沼・盛岡・八戸・郡山・山形と次々と営業所を展開したのはよいが、調子に乗り過ぎて又失敗した。信頼していた営業所長の造反もあって、昭和44年には資金繰りに窮して二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなるというピンチを招いてしまった。毎日手形の決済に追われて後ろ向きのその場凌ぎの日々が続き、毎月給料も遅配という地獄の苦しみを味わった。 此処が人生の正念場と腹を据えて京都本社に行き石田隆一社長に窮状を訴えたところ、役員会にかけて頂き石田社長の決断で日東の1500万円もの債務を棚上げしてくれた。人生の最大のピンチを救って頂いたわけだが、石田社長はそんな私に料亭で一席設けて励ましてくれた。私の今日があるのは、この時助けて頂いたお陰である。京都には足を向けて寝られない。 |