付録(計量史学以外のこと、計量史学から日本人の起源を探るための前提として)

1 はじめに
2 日本人の起源を探る 2.1 自然人類学から探る日本人の起源
2.2 考古学から探る日本人の起源
2.3 言語学が探る日本人の起源
2.4 日本犬から探る日本人の起源(日本犬のルーツとの関係から)

 

 

付録(計量史学以外のこと、計量史学から日本人の起源を探るための前提として)

 1 はじめに(計量史学ではないが、日本人の起源に迫る諸学問の成果)

   計量史学は岩田重雄の研究によってアメリカ大陸に渡ったモンゴロイドの文化の共通性を数の数え方から明らかにした。岩田は数詞の研究を進めるなかでモンゴロイドに共通の倍加法を見つけて、これがモンゴロイドに共通であることを探り出した。
 筆者を突き動かす根本的興味は日本人の起源である。もう一つは日本に土着の犬の起源を探ることである。犬は人が最初に飼った家畜であり、縄文期までは家畜としては犬しかいなかった。弥生時代になって新しい犬が渡来するほか、馬、牛などの家畜もみられるようになった。日本の犬の起源を探ることによって、日本人の起源を探ることができ、この方面で大きな研究成果が出ている。言語学にしても同様である。自然人類学の成果は目覚ましく、日本人の起源に鋭く迫る研究成果が続出している。

 2 日本人の起源を探る

 

2.1 自然人類学から探る日本人の起源

      <1>形態学的な方法と遺伝学的な方法の二つ
 自然人類学は、形態学的な方法と遺伝学的な方法の二つの方法によって人種の歴史や系統を割り出せるようになっている。形態学的方法は頭や顔の長さ、その他骨の各部位の長さ等を計測して、統計学的方法を用いることによって、人種の区分けがかなり明瞭にできるようになった。遺伝学的な方法は、分子レベルの蛋白組成の遺伝を取り扱うもので、人によって蛋白の構造が少しずつ異なり、それは遺伝的にはっきり区別されるので、人種を探るよすがになる。蛋白質の分子の構造は遺伝子によって決まる。血清蛋白や血清酵素を用いて遺伝子情報を調べると、蛋白質の分子構造が突き止めることができる。形態学的方法、遺伝学的方法ともにコンピュータを用いて多変量解析をすると生物学的な情報を正確に得ることができる。
<2>日本人はモンゴロイド
 日本人がモンゴロイドであることは、人種としての形態学的な特徴の面からも遺伝的特徴からも明らかである。日本人がモンゴロイドであることは間違いないことではあるが、モンゴロイドの系統は、大きくは北方系と南方系に分類され、それがさらに細分化される。日本人はそうしたモンゴロイドのどのような小集団に属するのかの解明はまだ十分ではない。日本人を構成する人々が、何時どのような経路で、現在の日本列島にたどりついて、定着したのかの探求がいま盛んに行われている。日本人はモンゴロイドであるものの細かに分類した場合には、単一の人種あるいは単一の民族でなかったことが判明している。
<3>日本人の基層をなすのは古モンゴロイドの縄文時代人
 そうした日本人の基層をなすのは縄文時代人である。縄文人は彫りが深く、立体的な顔立ちの古モンゴロイドであった。古モンゴロイドの基層の上に新モンゴロイドがかぶさって、現在の日本人を形成したと考えるようになった。
(1)日本民族への朝鮮半島人の人種的影響の色濃い
 現代日本へとつながる日本人に及ぼす朝鮮半島の文化の影響の色濃さ、朝鮮半島人の人種的影響の色濃さはかなりのものであることが分かる。大陸、とりわけ中国人、漢民族が及ぼした影響は人種的というよりも、文化面での方ものであろう。
(2)弥生人は朝鮮半島から渡来
 朝鮮半島の人々と日本人の人種的つながりを濃厚に示している地域がある。現代日本人の近畿地方の人々は、他の地域の人々に較べて特殊な日本人であることが判明している。朝鮮半島から渡来したと考えられている弥生人は、北方要素を強くもった人々であることが分かっている。現代の近畿地方に住む人々と朝鮮人とには、他の地域の人々とは比較にならないほど共通項が多い。両者は人種的に近い間柄である。これに反して、アイヌは古モンゴルの系統に属し寒冷地適応をしていない人種である。縄文時代人もひどい寒冷気候のさらされたことがなかった。
(3)形態学的あるいは遺伝学的方法には大和朝廷は朝鮮半からの島渡来人
 弥生人やその後大陸から渡ってきた人々は北方要素を強くもっている。弥生人とおぼしき人々が、朝鮮半島から九州に渡来し、山陽を経て近畿に達し、その後大和朝廷を形成したのであろうことが、形態学的あるいは遺伝学的方法による人種の分類から明らかである。
(4)生体計測値は近畿人=朝鮮、関東・東北人=アイヌ系である地域差は歴然
 渡来人の移動の経路は、遺跡や文化的遺産あるいは現代人に残されている形態学的あるいは遺伝的特徴から推測できるのである。生体計測値からも近畿地方に住む人々が朝鮮系であり、関東地方あるいは東北地方に住む人々は古モンゴロイドと関係するアイヌ系であるという地域差が歴然としている。
<4>近畿人は新モンゴロイドの特徴が濃い
 現在の日本人は、形態学的な方法と遺伝学的な方法の両方によって分類しても地域的な格差を見いだすことができる。頭蓋骨の形態的特徴から分類すると、近畿地方を中心に西日本一体の人々とその他の地域の人々には明瞭な違いがある。近畿地方の人々の頭蓋骨の特徴は大陸系の人々と同じであり、それは新モンゴロイドの特徴に一致する。
<5>新モンゴロイドは寒冷順化型
 新モンゴロイドは寒冷順化した人種であり、古モンゴロイドは寒冷順化していない人種である。その違いは顔の彫りの深さに現れる。新モンゴロイドは寒冷順化により、顔の表面積が小さくなりのっぺりした顔立ちになった。モンゴル人やイヌイット(エスキモー)の人々に特徴的な顔立ちのことである。
<6>アイヌは古モンゴロイド
 アイヌは北海道に残ったが寒冷順化していない人々であり、古モンゴロイドに分類される。沖縄の人々も古モンゴロイドと考えられ、アイヌの人々と同じ形態的特徴をもっている。沖縄の人々とアイヌの人々には同じ特徴があり、共に古モンゴロイドであるとみなされている。蝦夷(えぞ)の地、北海道に追いやられた寒冷地方に住むアイヌが寒冷順化していない人々である、ということは、北海道の気象が分かる現代人の一般常識からは了解しにくいところではあるが、このへんの事情はそういうものだと飲み込む必要がある。
<7>熊襲(くまそ)は古モンゴロイド
 古い文献に登場する熊襲(くまそ)は、九州地方に住む人々であった。その特徴は、毛むくじゃらであるということである。その形態学的特徴は、沖縄の人々やアイヌの人々と同じである。九州の地にいた熊襲は、日本人の基層をなす人々であり、古モンゴロイドであったと考えられる。そうした古モンゴロイドは、新モンゴロイドの流入とともに新モンゴロイドに追われることになったのであろうと考えられるようになった。
<8>朝鮮半島経由で日本列島にやってきた新モンゴロイド(便宜上弥生人とする)と先住の古モンゴロイド(便宜上縄文人とする)の身体的比較(『古代朝鮮と日本』山口敏「自然人類学から探る現代日本人の起源」より)
(1)身長=弥生人161cm〜162cm、縄文人159cm。
(2)頭指数(頭蓋骨計測)=弥生人より縄文人は頭が前後に長い。
(3)指紋の型の出現率をに人種差がある(指紋三叉数)=朝鮮15.00、北海道アイヌ12.97で中間に全国各地方、沖縄はアイヌに一番近い数値を示し13.45。
(4)手のひらの皮膚降線(D線3型出現率)から求めた遺伝的距離=アイヌと南西諸島が近く共に朝鮮から大きき離れている。近畿は朝鮮に近似。つづいて中部が朝鮮に近い。
(5)耳垢=コナ耳(乾型)は朝鮮、中国に多い、アメ耳(湿型)は50%(約60%=『日本人新起源論』所載の「遺伝学から見た日本人集団」尾本恵一より)、南西諸島も高い、日本人では17%。」
(6)耳たぶ=福耳はアイヌ、南西諸島では出現率が高い、奄美では77.2%、朝鮮では32.6%、西日本は朝鮮に近い。
(7)まぶた=二重まぶたはアイヌ、沖縄地方の人々に多く出現する。本州人の出現率は前記より少ない。
(8)頭髪=朝鮮、中国など大陸方面の集団は直毛、アイヌおよび南西諸島はウエーブ(波打ち)形状。
(9)体毛=朝鮮、中国など大陸方面の集団は少ない、アイヌおよび南西諸島は多い(発達している)。
(10)その他
<9>ミトコンドリアDNA、血液中蛋白質など分子レベルの遺伝学によって分類される人種(『日本人新起源論』所載の「遺伝学から見た日本人集団」尾本恵一より)
(1)アイヌと本土人よりも、本土人と中国人の方が近い関係にある(現代アイヌの本土人との混血率は40%)。
(2)顔つきの違いとと遺伝子の話とは一緒にしていはいけない。(ある種の遺伝子はアイヌと本土人は非常によく似ている)。
(3)その他
 

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2.2 考古学から探る日本人の起源

      <1>発展する考古学
 考古学は古いことを考える学問であるが、学問そのものは決して古くから確固として成立していたものではない。日本の考古学は、定説をくつがえす新しい発見がつづいており、現代の考古学から目を離すことはできない。
<2>日本に旧石器時代人の存在を確認
 かつて考古学では日本には旧石器時代はなかったとされていた。それが遺跡の発掘がつづき、旧石器が続々と出てくるようになった。日本列島に旧石器時代の遺跡は三千例はあるといわれており、旧石器時代の人骨の発見が望まれるのである。しかし、日本列島は酸性土壌なので骨は酸化してしまい残りにくい。旧石器時代人の遺骨が出易いのは、洞窟などの石灰質の地からである。石灰岩の石切場から発破による破砕のおり、旧石器時代の地層から人骨のかけらが出てきて、旧石器時代人の存在を確認できている。
<3>明石原人の謎
 前期の旧石器時代人の推定はその後の調査で否定されているが、発見された人骨標本そのものは焼失し、その石膏標本をもとに、それを旧石器時代人と特定した学者が学会の最高権威者であったことから、その石膏標本をもって旧石器人の「明石原人」とした。
 その間違いは人骨の採集に際して地層の特定の手続きを踏まなかったことの起因する。旧石器時代人の骨ということでは、旧石器時代の末期が洪積世時代であるから、この地層から人骨が出てくれば、1.6万年から1.8万年以上も昔に生きた旧石器人の証明になると考えたことはそれでよい。しかし、明石市西八木の海岸で崩れ落ちた崖の土砂の中から発見された腰部の人骨は、旧石器時代の末期が洪積世時代の地層から出てきたとするには決定力を欠いていた。その人骨はその後焼失し、石膏標本だけが残された。その石膏標本を調べて旧石器時代人のものとしたのである。そう決めたのは人骨の採集現場には立ち会うことがなかった東大人類学教室の長谷部言人教授である。長谷部は石膏標本は旧石器時代人の人骨であるとし、それが「明石原人」とされたのである。
<4>放射性炭素C14による年代測定
 人骨の標本が残っていればその後、放射性炭素C14(有機中の放射性炭素14の減少が、一定の率にしたがうことに注目したW・F・リビーが1950年代に開拓した年代測定方法)による年代測定ができたであろう。これによって標本が旧石器人のものであるかどうかの特定も確かなものになったはずである。「明石原人」と決められた石膏標本は、科学的な決め手を欠いたまま旧石器時代人のものであるとされたのである。
 「明石原人」とされた石膏標本は、人骨の形態分析が発達してから分析を試みたところ旧石器時代人の特徴は見られず、それはむしろ現代人の骨の特徴が顕著であるこが明らかになった。以上のようなことで、「明石原人」説は否定され、現在では多くの教科書は「明石原人」の記述をしていない。
<5>旧石器時代人の人骨の港川人
 まぼろしに終わった「明石原人」の後、旧石器時代人の人骨がその後何例か出ている。
 石灰岩の石切場で発破をかけた破砕後から出てきた人骨で牛川人(豊橋市)、三ヶ日人、浜北人である。これらは旧石器時代の地層から偶然に転がり出てきはしたものである。惜しいのはその人骨が断片的に過ぎることである。
 1967年に沖縄本島南部の港川(具志頭村)から出てきた数例の港川人の骨は、放射性炭素C14による年代測定で、一万六千年から一万八千年前のものであることが分かっている。
 

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2.3 言語学が探る日本人の起源

      <1>はじめに(モーリス・スウォディシュが提唱した「言語年代学」)
 アメリカの言語学者モーリス・スウォディシュは、人間の言語は長い年代の間に、何かの規則性にしたがって変化することから、その言語の語り手たちの過去の歴史をひもとくことができると考えて言語年代学を提唱した。モーリス・スウォディシュは、人間が使う言葉(単語)その発音や形態が絶えず変化するうえに、ほかの言語から言葉を借用することがさまざまな状況の下で起こる。新しく入ってきた言葉が古い言葉と併存したり、古い言葉を駆逐したりする。言語は意思の伝達を目的としているため、人間行為にかかわる基礎的な伝達にかかわる言葉は社会変動があっても変化しにくい。新しい技術、学芸、新しい社会組織や経済体系にからむ言葉は、それらの変化にともなって廃棄され、変更されることが多いという性質がある。
 モーリス・スウォディシュは、一つの言語が二つの言語に分かれるとき、1000年の後に、そのおのおのは祖語の基礎語彙の81%を保っていることを突き止めた。基礎季語の残存率81%を年代に当てはめていくと、二つの言語が何年前に一つの言語から分かれたかが判明する。スウォディシュは、アメリカ大陸の原住民の言語の比較と分類をこの原理でおこなって成果をおさめている。(新潮社『沈黙の世界史』12より)
<2>日本人のルーツを探る方法としての言語学
日本人のルーツを探る地道な考古学的研究が積み重ねられている。ルーツ探求は様々な形でアプローチされている。人類学的の方法が現代では決定的に大きな要素になっているが、他には言語学的な方法からのアプローチもある。日本語の起源は、日本人の起源につながる。
<3>朝鮮語で万葉集の真意を解き明かせる
 古い朝鮮語をもとに万葉集の歌を解き明かす方法は斬新的であり、こうした手法により万葉集の歌の真の意味とも思われる事柄が浮き彫りにされることが多い。と同時に万葉集の歌の読み人とそれを支えた文化の朝鮮半島人の影響の色濃さも明瞭である。
<4>現代の日本語は明治政府がつくった
 「おとうさん」「おかあさん」という言葉は、明治以降に文部省がつくったもの。日本語の起源の後ずさりは手順を踏まなくてはならない。
<5>縄文人の言語と現代日本語(言語学で明かす日本人の起源)
(1)縄文人と弥生人の言語
 縄文人あるいは弥生人はどのような言語を使って生活していたのであろうか。弥生人は朝鮮半島からの渡来人であったから、縄文人とは別の言語体系を持っていたことであろう。
 稲作文化は弥生人によってもたらされた。縄文時代にも稲作があったとする説はあるが、縄文人と弥生人は日本列島に一定期間同時に生きていたのである。
(2)優位に立った弥生人
 稲作をする弥生人はすぐれた農業技術をもっており、集団で生活するのにともなって政治も面でも縄文人を威圧するに足る内容のものがあっただろう。日本の縄文時代には大陸にはすでに文明が花開いており、そうした文明の力と比肩すると縄文人は武力の面でも太刀打ちは困難であっただろう。
(3)アイヌ語は縄文語を残す
 言語にしても渡来人と縄文人では異なったはずである。縄文人の言語に渡来人の言語が重なって別の新しい言葉ができたのであろうか。縄文人と渡来人は混血したのであろうか。縄文人と弥生人が混血して倭人ができたと考えられている。アイヌは伏さない(まつろわぬ)縄文人の末裔であると考えられている。したがってアイヌ語は現代日本語とは別の言語として残った。
(4)文語、弥生語、大和朝廷語、中世時代語、現代日本語
 縄文語、弥生語、大和朝廷語、中世時代語、現代日本語という分け方ができると考えられており、縄文語はアイヌ語の中にその存在を色濃くとどめている。日本語の基層となっている縄文語の上に覆い被さって弥生語は、縄文語とある部分では融合して大和言葉を形成するに至ったものであろう。
(5)日本古来の計量単位であるツカ、ヒロ
 現代の日本語にはその語源が分からなくなっているものが多い。
 日本の古く計量単位で現代まで残っている言葉に長さの単位ツカやヒロがある。
 計量単位は大陸との交流のなかで様々なものがあり、これは大陸の文明の渡来と大きな関係がある。日本の歴史は、中国、朝鮮の歴史との関係抜きで考えることができない。
(6)はかるという言葉の由来とその意味(アイヌ語との共通性)
 日本の計量に関係する言葉である「はかる」を少し突っ込んで考えてみよう。
 日本語の「はかる」という言葉は、現代語では計量あるいは計測の意味である。「はかる」という言葉にはいろいろな漢字を当てることができる。「計る」「量る」「測る」「図る」「謀る」などである。
 「はかる」あるいは「はかり」という言葉が含んでいるの意味は広い。
 その「はかる」の語源である。
 日本語の「はかる」とは、「はか(量)」を動詞化したものというのが通説である。
 アイヌ語では同じような意味をもつ言葉として「パカリ」がある。
 計る、量る、考えるという意味である。「パカリ」(pakari)は、「パク」(paku)と「アリ」(ari)に分解でき、「パク」は「計る」の意、「アリ」はan(アン)とi(イ)に分解でき、アンは在るまたは有るの意で、イは他動詞化する母音語素で、anとiで「在らしめる」の意味になって、ani(アニ)は持つという意味である。
 従って「パカル」は、「在る量まで持つ」ということであり、「計る」の意味になる。
 

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2.4 日本犬から探る日本人の起源(日本犬のルーツとの関係から)

      <1>犬の誕生
(1)犬の祖先はオオカミ
 イヌの祖先はオオカミであるという考えは通説になっている。オオカミが人間に飼われる、いわゆる家畜化されるようになって、イヌへと変化していったと考えられる。DNAで近縁関係を調べると、非常にイヌとオオカミは近く、これは間違いない。動物行動学のローレンツはジャッカル説を出していたが後にこれを撤回した。
(2)犬の誕生
 2〜3万年くらい前にはオオカミが人間に飼われ始め、同時にイヌが誕生した
 いつ頃から、イヌになったかという、はっきりしたことは分らないが、2万年ほど前のイヌの骨が発見されているので、少なくともそれ以前、2〜3万年くらい前にはオオカミが人間に飼われ始め、同時にイヌが誕生したと考えられている。世界でも日本でも犬は最古の家畜であった。人間の狩りのための道具として槍のほかに弓矢が発明された。すぐれた飛び道具としての弓矢と人間の意志に従って狩りの補助をする犬は食糧確保に重要な役割を果たすようになり、事実人のエネルギー獲得になくてはならないものになった。ブッシュウマンの狩りを観察したアメリカの人類学者リチャード・リーが観測したデータでは、その集団が必要とする肉の75%を、訓練の行き届いた犬数匹を使って一人の狩人が獲得し、残る25%を犬を使わない狩人が6人がかりで獲得したというものであった。
(3)小型のインドオオカミ、アラビアオオカミが家畜化されイヌになった可能性が高い
 最初は、どのあたりの地域で飼われ始めたのかもまだ特定できない。古いイヌの骨は、ユーラシア大陸で多く発見されている。ユーラシア大陸には四種類のオオカミがいるが、中でもわりあい小型のインドオオカミ、アラビアオオカミが家畜化されイヌになった可能性が高い。ニホンオオカミが日本犬になったかというとこれは否定されている。ニホンオオカミが日本犬の元になったのではなく、大陸でオオカミが犬に変わって、それが人に連れられて日本に移動してきたものと考えられる。犬の現在の日本列島への移動は単発ではなく、幾度にもわたっていると考えられる。
(4)犬は人とともに移動して混血する
 家畜化されると自ら移動することがないので人間とともに移動し、各地のオオカミと交け合さって、いろいろな種類ができていったものと考えられる。DNAを調べても、ヨーロッパにいるイヌはヨーロッパのオオカミの、日本犬などアジアのイヌはアジアのオオカミの遺伝子が混じっていることが分っている。犬は人の移動とともに混血し、さらにその地の環境に適応することによって、さまざまな犬種ができたと考えられる。
(5)人間はどういう理由で、オオカミを飼いならした犬を飼うようになったか
 オオカミは他の動物を襲う怖い存在であるのに、人間はどういう理由で、オオカミを飼いならして犬に変えたのだろう。これにはさまざまな想像が出されている。ある説では次のとおりである。オオカミは体があまり大きくなく、大型の猛獣からねらわれやすい動物なので、襲われないよう、安全な場所を求めていたと考えられる。人間は武器を使い集団で行動するので、大型の猛獣も昼は恐れて襲わなかったと。従って、人間の住む場所の近くは、オオカミにとっても安全な場所だった。そういう中で、オオカミは雑食性が比較的高い肉食動物だから、夜になると、人間の残した骨、内臓などの残り物をあさるようになった。別の説では、子どものオオカミに餌を与えているうちに人になついで家畜化したということになる。
 最初は、人間もオオカミを追い払うなどしていただろうが、夜に野獣の襲撃があるとオオカミが吠えるので、警戒用に役立つことが分り、いつしかオオカミの仔を巣から持ち帰って、飼育するようになったのではないかと推察される。
(6)人間は最初は番犬用にオオカミを飼った
 人間は最初は、番犬用にオオカミを飼いだした。そのうち、オオカミの優れた嗅覚や聴覚、足の速さといった特徴を、人間が気付き、狩猟の助手として活用するようになったと考えられる。その後、人間の生活形態が変化するにつれ、相互の関わり合い方も多様になり、また関わりが深まる中で、オオカミはイヌ化していったものと思われる。
(7)牧畜犬に利用される
 牧畜を始めた人間には、ヒツジやウシなどの家畜の群れをコントロールする牧畜犬として、利用されるようになった。一方、農耕を始めた人間にとっては、イヌの用途は番犬だけになり、あまり重要な役割を果たさなくなっていた。その代りに、食用としても用いられるようにもなったと思われる。
(8)警察犬あるいはコンパニオンドッグに
 そのご時代が下って近代では、軍用犬や警察犬、麻薬探知犬などへの用途も広がり、現代では家庭犬としての存在価値が増大している。
 特に1950年代以降、先進諸国においてはペット、最近ではコンパニオンアニマル(伴侶動物)と呼ばれており、この役割がより重要視されてきている。
<2>日本犬の起源
(1)モンゴル犬や韓国犬が日本犬に近い
 日本を始めモンゴル、韓国、台湾、東南アジア、ヨーロッパなど各地のイヌの遺伝子は、モンゴル犬や韓国犬が日本犬に近いことが分かっている。さらに、日本犬に多く見られる突然変異型の遺伝子が、韓国犬だけに見られる。そのことから察すると、モンゴルなど東北アジアから韓国に移入したイヌに突然変異が起き、それが日本列島に入ってきたと考えられる。
(2)犬は東南アジアからも日本にやってきた
 しかし、それだけが日本犬のルーツとはいえそうにない。なぜなら、日本犬の一部に東南アジアのイヌと同じ型の遺伝子を持ったイヌもいるのです。
 東南アジアのイヌがどうやって日本にやってきたのか、そのルートなどはよく分かっていないが、縄文人によって日本列島にもたらされたのではないかと考えられるている。
(3)朝鮮半島経由の犬
 一方、弥生人とともに突然変異型の遺伝子を持ったイヌが朝鮮半島を経てたくさん入ってきて、先にいた縄文犬と混血し、今の日本犬のもととなったと思われる。その後、古墳時代以後は、外国のイヌの影響を受けず、日本犬が成立していった。
 弥生人は朝鮮半島からやってきたが、人の歴史と犬の歴史が照合する。イヌは常に人間とともに移動するので、日本犬の起源から日本人の歴史、ルーツが見えてくる。しかし、古いイヌの型の遺伝子がどうやって日本に入ってきたのかなど、明らかにすべき点がまだまだ残されている。今後、古いイヌの骨のDNA解析などを用いての調査がなされていくことになろう。
(4)縄文人は犬を埋葬した
 縄文人の生活の中心は狩猟採取だったから、イヌを猟犬として使っていたと考えられている。縄文遺跡からは、埋葬されたイヌの骨が出てくる。縄文人にとって犬は埋葬する対象となるほど親近感が強かった証拠がある。当時は人間にとってイヌは狩猟のための重要な存在だった。約1万1千年前の遺跡、愛媛県の上黒岩陰遺跡から埋葬された犬の骨が出てきている。縄文時代の犬の大きさは遺跡から発掘された骨の大きさが柴犬の大きさ程度だった。
(5)弥生人は犬を食べた
 しかし、今から約2千3百年前の弥生人の時代になると、大きくイヌの用途も変った。長崎県の原(はる)の辻遺跡から、たくさんのイヌの骨、それも殺されて食べられた跡のある骨が発見されている。弥生人は農耕生活をしており、イヌは食用としての存在だったと推定される。
(6)日本で犬を食べなくなったのは明治以後
 それが6世紀頃になると、仏教の伝来とともに、イヌだけでなくウシ、ウマ、ニワトリなどの肉を食べることが禁じられるようになった。犬を人間が食べた痕跡は仏教伝来と普及にともない減っているという。実際にはその後も、わずかながらイヌを食べる習慣が残っていた。日本人が犬を食べなくなったのは、明治時代以降は欧米の動物愛護思想が広まってからのようであり、現代の日本には犬を食べる習慣はない。
(7)天然記念物に指定されたて日本犬
 明治時代から西洋犬が輸入され始め、純粋な日本犬が少なくなっていた。日本人が日本の在来種としての日本犬の価値を見いだしたのは明治以降のことであり、日本犬保存運動があったために今日の日本犬が残った。昭和初期から日本犬保存運動が高まり、秋田犬を始め北海道犬、甲斐犬、紀州犬、四国犬、柴犬、越の犬(後に絶滅)の七品種が天然記念物の指定を受けた。
(8)絶滅種の発見
 また、絶滅したとされていた薩摩犬、西郷隆盛の銅像のイヌとして有名であるが、これが最近発見され保存運動が起きるなど、各地で日本犬を残そうという動きが盛んに起きている。しかし、すでにたくさんの日本犬が絶滅してしまっている。
(9)アイヌ犬はアイヌと共に北海道に移動
 古い日本犬は縄文人たちが南中国または台湾経由で日本列島に持ち込んだ。
 2300年くらい前に弥生人が朝鮮半島を経由して新しい犬を持ち込んだ。
 縄文早期の犬の体高は36cmから41cm程度で、これは現在の柴犬に該当する。縄文後期なると体高46cmから51cm程度で、これは日本犬中型犬に該当する。紀州犬は朝鮮半島の犬に近いDNAをもっているが、アイヌ犬は(北海道犬)異なる。北海道犬は縄文人の末裔であるアイヌが本州から直接持ち込んだものと考えられている。北海道犬は遺伝子構成が、南方系の台湾在来種や中国南部起源の犬に近く、エスキモー犬とは遠い。
 人類学的にみるとアイヌはエスキモーとは遠く、沖縄の人々に近い。弥生人と異なる形質をもつのはアイヌと沖縄の人々であり、これらの人々は縄文人の末裔であることが確実である。
(以上は田名部雄一著『犬から探る古代日本人の謎』の大略である。)
(10)田名部雄一は血液遺伝子を中心にして日本の古代の犬のルーツを探っているが、西本豊は犬の骨の形、大きさなどを基本にしてルーツを探っている。西本豊はオホーツク文化の犬の骨を詳しく調べて、その顔つきが縄文犬あるいは続縄文犬とかなり違っていることを根拠として、樺太(サハリン)方面から持ち込まれた犬だと考えている。このオホーツク犬は、北海道の中・近世の遺跡から見つかる犬の骨やアイヌ犬(北海道犬)に近いと結論づける。(体系日本の歴史1 日本人の誕生 小学館)
<3>日本の在来犬(日本犬)と日本人との関係
(1)犬が日本人の起源を明かす
 人類学やイヌを始めとする家畜の渡来経路についての知見によれば、いずれも、日本人は2元的に成立し、その始めのものは南方から約1万年前に入ってきた縄文人であり、彼等は家畜としてはイヌしか持っていなかったが、次の渡来の波として約2300年前から朝鮮半島を経て入って来た新来の弥生人は、農作物や家畜、鉄、銅などを我国にもたらした。そしてそれまで主として狩猟採集により食物を得ていた縄文人と混血または駆逐して、わが国は農耕時代に移行したと考えられる。
 この混血したものがいわゆる和人で、大部分の現在の日本人の祖先であると考えられる。一方同化されなかった縄文人は南北に追われ、南方へ行ったものが熊襲、隼人、北方へ行ったものが蝦夷であり、前者はやがて同化された。しかしその子孫は琉球ではあまり混血をうけずに残ったと考えられる。
 一方、北方の蝦夷は容易に同化されず、和人が東北地方でほぼこれを征圧したのは12世紀になってからと思われる。しかし、北海道では蝦夷の子孫アイヌは明治になっても同化されずに残ったと考えられる。今日では混血しないアイヌは少数になったが、依然北海道に存在している。一方、イヌは最古の家畜であり、常にヒトと共に移動する。したがってアイヌが古い型の日本犬を保存していたのは、いわば当然とも考えられ、また逆にイヌの遺伝子の研究から日本人の起源を追究することが可能となったのである。『古代朝鮮と日本』所載の「家畜のルーツ、特に犬の遺伝子分析からみた日本人の成立」、田名部雄一より)
(2)アイヌは北から来たのではないことをアイヌ犬が明かす
 日本人の成立についての考古学、人類学的知見を総合して考えると、次のような結論が導き出される。古い日本犬は南方から縄文人が約1万年前につれてきた。その後2300年前頃に朝鮮半島を経て入って来た弥生人が新しい犬を持ちこみ、混血が起り、今日の大部分の日本犬の先祖となった。一方、北海道は長く縄文人の直系の子孫のアイヌが住んでいたこともあり、古い日本犬が持ちこまれ、新しい犬の遺伝子の導入が殆ど起らなかった。この北海道犬が北から持ち込まれた可能性は殆どない。これは北海道犬とエスキモー犬の遺伝子構成が全く異なることから知られる。『古代朝鮮と日本』所載の「家畜のルーツ、特に犬の遺伝子分析からみた日本人の成立」、田名部雄一より)
(3)遺伝子的にはアイヌ犬は台湾の犬に近い。(『日本人新起源論』所載の「総合討論」田名部雄一の発現より)
(4)本州および四国の犬の遺伝子は珍島、済州島の原種犬に近い。『日本人新起源論』所載の「総合討論」田名部雄一の発現より)
(5)その他
   

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