東京都から神奈川県の川崎市、横浜市にかけて広がる京浜工業地帯は、事業所数、従業者数とも日本一の規模を誇ります。巨大な消費市場と原料・製品の輸出入に便利な東京港、川崎港、横浜港を有し、鉄鋼や機械、化学などの重化学工業から食品、繊維などの軽工業まで、あらゆる分野の企業が集まっています。近代から現在にいたるまで、この一帯が日本の産業を牽引してきました。この広大な工業地帯は国が作ったものではありません。一人の民間人が自分の半生を賭けて実現させた事業です。その人物の名は、浅野総一郎。
富山で生まれた浅野は15歳で初めての商売を興し、次々と新しい商売に手を出しますがことごとく失敗します。借金に追われるようにして24歳で上京。無一文から始めて数々のアイデアで成功を重ね、セメント事業などで財をなします。そして、念願であった海運業を興すため欧米に外遊。旅先で見た欧米諸国の港湾の発達ぶりに驚愕した浅野は、帰国してすぐ東京横浜間に港湾機能を持つ工業用地を造成する計画に取りかかります。
「港のない都市など、玄関のない家と同じだ」と周囲に説いて回り、東京都、東京市、神奈川県と再三にわたって埋め立ての許可申請をしますが、あまりにも広大な計画のためどこも認可されません。しかし、浅野は持ち前の粘り腰で「鶴見埋立組合」を設立、ようやく認可が下りて鶴見地区で東京湾の埋め立てを開始しました。そして、着工から15年の年月をかけて昭和3年に埋め立て事業が完成します。埋立地には大手企業の工場が建ち並び、浅野自身も数々の工場を設立。欧米の港湾を初めて目にしたときから数えて実に40年、鶴見の地で京浜工業地帯が産声を上げました。鶴見は京浜工業地帯発祥の地なのです。
メジャーテックツルミの創業者、横須賀良助は日本鋼管で長く働いていました。工場での勤務経験から「工場の気持ちになってはかりをメンテナンスしてくれる会社がない」と、昭和39
年に鶴見産業株式会社(現株式会社メジャーテックツルミ)を設立しました。日本鋼管の創業者は白石元治郎、浅野総一郎の娘婿に当たります。
日本一の工業地帯の礎を築いた浅野総一郎から、そこの工場を陰で支えるメジャーテックツルミ横須賀良助まで、「鶴見」という名の1本の線がつながっています。それぞれ「京浜工業地帯を創った男」「京浜工業地帯を陰から支えた男」として、京浜工業地帯を盛り上げていくという熱い思いでつながっていたのです。
そして、現在でもメジャーテックツルミには「工場の立場になって考えられるメンテナンス屋でありたい」という創業者の決意が脈々と受け継がれています。社屋は川崎の地にありますが、社名からは「ツルミ」の名前を外していません。それは、鶴見が京浜工業地帯発祥の地であること、そして、京浜工業地帯を盛り上げていくという先人たちの決意を忘れないためなのです。