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日本計量新報 2016年12月18日 (3131号) |
度量衡制度の制定と登場する権度課課長の高野瀬宗則や田中舘愛橘ほか明治時代の中期から後期にかけて日本では度量衡制度の制定とその施行の推進が懸命になされる。 これは西洋文明の調査を目的の1つとした1871年12月23日(明治4年11月12日)から1873(明治6)年9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国を視察した岩倉使節団(遣欧使節団)と無縁ではなく、その結果として日本における度量衡制度の制定が急がれたのである。遣欧使節団は政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成されていた。特命全権大使は岩倉具視、副使は木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳であった。 使節団には欧米に留学する若年の男女が含まれていた。米国留学の女子とその年齢は、津田うめ(梅子、9歳)、永井しげ(繁子、10歳)、山川捨松(12歳)、上田てい(梯子、16歳)、吉益りょう(亮子、16歳)、金子堅太郎(18歳)、團琢磨(16歳)である。 金子堅太郎はハーバード大学ロースクールで法律を学び、帰国後、東京帝国大学の初代行政法講座初代担当者(1886年から1888年)となり後に司法大臣、農商務大臣をする。團琢磨はマサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し帰国、大阪専門学校(旧制第三高等学校の前身)助教授、次いで東京大学理学部助教授となり工学と天文学を担当。團は工部省で鉱山局次席、官営の三井三池鉱山局技師。1888(明治21)年に三井三池鉱山が政府から払い下げられると残って三井三池炭鉱社事務長に就任した。金子と團の交友はつづき、團は金子の妹芳子と結婚している。農商務省の金子堅太郎、工部省の團琢磨の2人は日本の産業の発展のための制度の整備にかかわる地位にいた。 東京帝国大学仏語物理学科をでて駒場農学校で教鞭をとっていたのが高野瀬宗則である。政府は高野瀬宗則を1886(明治19)年に農商務省の権度課課長に任命する。本格的な度量衡制度の基盤となる度量衡法を制定するためである。権度課課長の高野瀬は陸奥宗光が農商務相に就任し、斎藤修一郎が次官になった機会をとらえて1891(明治24)年に度量衡法を制定する。 権度課課長の高野瀬宗則には度量衡法の制定のほかにも幾つかの功績があり、その1つが物理学校に度量衡行政の管理と専門技術者を養成するための修業年限1年2学期の度量衡科をつくったことである。度量衡科設置について高野瀬宗則は「度量衡制度はできたがわが国には度量衡機器の検定をしたり、製作するさいの知識を有する者が決定的に不足しているので、物理学校に度量衡科を設けてその人材を養成してほしい」と述べ、強く要請したのである。当時の日本は度量衡器をはじめ各種の計測器や科学機器の製造の手ほどきを役所がおこなうという状況であった。官営の三井三池鉱山局技師の團琢磨が、鉱山が払い下げられるとそのまま三井三池の経営をしたことと似ている。 物理学校の校長は寺尾寿である。権度課課長の高野瀬宗則は夜には物理学校で熱学の教鞭をとっていた。寺尾寿は高野瀬にとって東京帝国大学仏語物理学科の1年先輩であった。物理学校は東京帝国大学の物理教員などその卒業者がつくった学校である。東京帝国大学総長の浜尾新は「寺尾の物理学校」だからという言い方をして実験機器を貸し出していて、卒業式では祝辞を述べていた。 寺尾寿と高野瀬宗則の親交はあつかった。寺尾は高野瀬宗則を「物理学普及にかかる同志」と呼んだ。そして寺尾は「度量衡科の設置も国にまかせていたら何時になるかわからない、物理学校だからこそ臨機応変に対応できるし、また即戦力になる人材の養成もできる、また学校経営上も損はない」と考えたのである。物理学校における度量衡科の設置期間は2期ほどで終了したらしい。度量衡官吏の養成はのちに国の機関に移されることになる。物理学校度量衡科修了者に関菊治がおり、中央政府から独立したようにもみえる形で関菊治は大阪府権度課長として度量衡行政に卓越した手腕をふるった。 東京京帝国大学総長浜尾新は「帝国大学理学部を初めて卒業した20余名の本邦初の理学士たちが物理学校を設置し」と1895(明治28)年2月17日の卒業式で述べている。物理学校は1881(明治14)年9月11日に東京物理学講習所として開校されているから、浜尾のこの日のあいさつは創立から13年を経てのことである。この席には東京帝国大学理科大学学長の菊池大麓(東京帝国大学第5代総長)、同教授山川健次郎、同教授田中舘愛橘の姿があった。田中舘愛橘にとって菊池大麓は数学、山川健次郎は物理学担当の教員であった。遣欧使節団と一緒に米国に渡った山川捨松は会津藩家老の子にして山川健次郎の妹で、参議陸軍卿で伯爵となっていた大山巌に後妻として嫁ぐ。教育者にして鹿鳴館の華ともなった。 菊池大麓は度量衡行政に研究・検定業務の責任者として一時関与。田中舘愛橘は日本人初の国際度量衡委員であり国際舞台で活躍し、ローマ字論者でもあった。田中舘愛橘は重力や地磁気の測定のため日本各地を歩いた人でもある。「寺尾の物理学校」の寺尾寿と山川健次郎、田中舘愛橘はローマ字普及運動の仲間で寺尾寿を委員会の委員長として「日本式ローマ字」を提唱したがヘボン式にそれを譲ることになる。 田中舘愛橘に寺尾寿は「おい、元気でやっているか」と声をかける仲。田中舘愛橘は国際度量衡委員、寺尾寿は度量衡官吏養成のための物理学校度量衡科設立の要人、菊池大麓は東京帝国大学第5代総長になったほか一時は度量衡器検定所の所長であった。このような人々と一緒に高野瀬宗則があった。明治時代の中期から後期、そして大正時代、昭和の中期までは東京帝国大学や物理学校などで度量衡は大きな位置を占めていて、学校責任者が度量衡行政と深く関わっていた。 山川健次郎は会津藩家老の子にして白虎隊の生き残りであり、田中舘愛橘は南部藩士にして近親に勤王の志士がいる。高野瀬宗則は彦根藩士の子である。桜田門外の変を国許の彦根に速駆けして知らせる役目をしたのは高野瀬宗則の父の高野瀬喜介である。 農商務省権度課課長の高野瀬宗則の先祖は、滋賀県滋賀県彦根市肥田町にある肥田城の城主の高野瀬隆重に還るようだ。滋賀県犬上郡豊郷町大字高野瀬にある高野瀬城も高野瀬隆重の持ち城である。高野瀬一族は佐々木六角と浅井長政との間を往き来していて、佐々木六角には肥田城を水攻めされている。結局は浅井長政につき戦国の動乱に突入する。それから300年を経て桜田門外の変で彦根藩士の高野瀬喜介が国許への急報の任を受けて登場する。 高野瀬一族の子孫であるらしい高野瀬宗則が農商務省商工局権度課長として、1891(明治24)年第1次度量衡法の制定と公布の責任者として歴史の舞台に登場する。明治憲法下での初期の度量衡取締条例から進んで、第1次度量衡法の制定となる。 1894(明治27)年3月、大日本度量衡協会が中央の計量(度量衡)団体として設立され、当時の計量(度量衡)行政を主管する農商務省の大臣後藤象二郎が会長になり、権度課長の高野瀬宗則は副会長に就任した。行政に密着しその行政機関の外郭団体は明治の旧大日本帝国憲法のもとでの通例としてその会長などには所管行政府の長が就任して、業者側はその下におかれた。 大日本度量衡会は1910(明治43)年の第2次度量衡法施行により、翌年の1911(明治44)年7月6日、日本度量衡協会に改組され、会長は農商務大臣牧野伸顕が務めた。のちに1898(明治31)年農商務大臣となり、昭和の初期までは会長の地位には伯爵になった金子堅太郎がついていた。官主導型ということで官主民従の団体役員構成の下では、団体活動は行政を補佐する内容であった。民主憲法に移行して1951(昭和26)年に計量法が公布されるころには現職公務員が関係団体の役員を兼務することがなくなった。 歴史の浮かぶ人の動きを通じて計量制度の社会における位置と役割を垣間見ることができる。
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