since 7/7/2002
私の履歴書 齊藤勝夫(第18回計量賞受賞者、元千葉県計量検定所長、元流山市助役、現千葉県計量協会・計量士会会長)
私の歩んだ道−公務員として信念を持って
第3編 新しい夜明け、計量法の歩み
本庁の振興課へ課長補佐で異動
さて、話しをもう一つの二兎を追った所員の大増員の悪戦苦闘した経緯と行末に移すことに予告をさせていただいたものの、特に大型はかり(トラックスケール・貨車掛)の検定検査用に、当時の国鉄所有の検重車を千葉県が借用し、国鉄側が使用しない期間のみ貸し出すのを借り受け検査する仕組みで、法定検査(特に当時の定期検査の周期は年1回即ち、毎年検査)をクリアしていたが、ユーザー側としては、自社の定期修理の時期に実施したい願いは特に強く、これを訴える当然の声が、年々強くなってきた。この問題を、どう解決し、どのような方法、やり方がとれるか計量検定所側と受検工場側との深刻にして真剣な打開策を宿題として持っている間に、自ら所長から本庁の部の主管課に課長補佐として異動し、苦難な時間を双方とも持ったままの状態であったことをここに振り返り、それをどのようにして難題を解決したかを述べることも、大事な歩みの一つでもあるので、これから要点を刻しご参考に供してみたい。
その前に、話しが全く前後しますが、この登載している欄が「私の履歴書」でありますので、恐縮ですが自らの履歴の中で、一番人生の歩みの一大転機となったことを述べさせていただきたい。自治大学校へ6ヶ月派遣
この本庁のしかも、部の主管課であり、かつ、計量検定所も入れて、当時の中小企業行政部門の出先機関(中小企業総合指導所、機械金属試験場、工業試験場、北海道経済事務所)5つを統括する主管課である振興課の課長補佐に前述のように異動したことである。ここに3年間仕事をしていて、計量検定所の主管課であるので手にとるように引き続き計量行政は把握して動勢がわかるのを始め、幅広く商工行政の関係法令と実務を学び得たことは言うに及ばず、2年目に時の商工労働部長を始め、部内の課長総員と沼田農林部長(所長時代の財政課長で、やがて総務部長、副知事、知事となった方)が一致して私を課長補佐と振興課の原課に籍を置いたまま、全寮制の自治大学校第一部に第31期生として6ヶ月間派遣されることを決めたのである。
私の人生の価値観を変えた
この自治大学校の6ヶ月派遣は、どの県も同じであるが、特に千葉県は自治大第一部第一期生が東大出の沼田知事であって沼田知事の治政下では自治大コースと称されて幹部候補生として幹部の登竜門に位置付けされていた。人選は最終段階では、庁内7部と出納局、企業庁管理部門からそれぞれ1名推薦されてその中から2名選任される難関の中から命ぜられた幸運の正に時の人になってしまった。裏を返せば、当時の沼田農林部長の肝入りであることは、論を待ちません。と申しますのは、昭和43年(1968年)7月初めに当時本庁の課長補佐が委員長を所掌をしている中小企業設備近代化資金貸付審査会でヒヤリングを県共済施設「亥鼻荘」で行っているとき、突然電話が沼田部長からかかってきた。「齊藤君、たった今知事、副知事の前で、後期自治大第一部派遣が決まった。体に気をつけて準備しておくように」との知らせである。程なくして沼田さんは自治大派遣の特別研修旅費は6ヶ月の寮費(食費、雑費)、教材費、参考図書月額8000円、1ヶ月当たり4回の帰省費、さらに派遣日当、卒業前の2泊3日の修学旅行費支給と、至れり尽くせりの厚待遇であることを教えられた。誠に恵まれ過ぎた果報者であった。この6ヶ月間は正に私の人生の価値観と人となりを大変貌させてくれた。
昭和43年(1968年)10月1日自治大入校時は中央官庁6名(自治庁3名、警察庁2名、行政管理庁1名)、都道府県(琉球政府3名を含めて99名)、市町村34名の139名が入校し、学び全国に学友という人脈をもった。特に学習(広範囲の法律(憲法、地方自治法、行政法、民法、行政事件訴訟法、行政不服審査法等の公法、さらに経済学等)は重点をおかれ、なかんずく憲法と行政法と経済学は厳しい筆記試験にパスしなければ落第である。加えて卒業論文(行政テーマ自由)5000字の関門も通らなければならないし、出身地に帰れない。さらに教養科目は数多く、入校後3ヶ月を過ぎると、内閣法制局から夜にかけて夜中まで参事官や事務官が数名こられて、立法作業のイロハから法制執務が叩き込まれる。3名1組で演題と実例と実践の連続である。法制のこと始めは元法制局長官佐藤達夫編の「法制執務提要」の本を教科書にしての紳士の特訓が始まって、息をつかさない勉学である。自治大で学ぶことを奨める
後々この教育訓練が大いに人格形成と処世術を変え、どの職場に命ぜられても臆することなく、人と伍し人並み以上に論戦をし、受け答えも論理の組立も、当意即妙の弁もこなす術を曲がりなりにも身につけることに役立つことになった。況や助役職についてその職分をこなすことができた大いなる礎石と基因となったことはこれ又言うまでもありません。後に続く後輩の方々機会があったら自治大に学ぶことを体験上お奨めしたい。大分話が横道に逸れましたが「私の履歴書」の欄でありますので改めてお許し下さい。
二度目の所長として復帰
本編に戻し、大型はかりの検定検査用の検重車借用の不合理の克服即ち自前の能力で好きなとき、容易に、適切な方法で検査を、しかも余り経費が多くかからずに済ませる道を探求し続け、私が3年後に、本庁から計量検定所長として昇格して、自治大学校第一部31期生を卒業して事務吏員としての資格も取得して、二度目の所長として復帰して実現させることになるのである。人脈は貴重な財産
それにしても本編に戻る前に、自治大学校に若き日学んだことが、私の人生の価値観と人となり即ち人格形成と処世術を変えたと前述しましたように、その中身と体験を今一度角度を変えて申し述べご参考に供したい。と申しますことは、人脈は貴重な無形の財産であり、ご当人特有のものであって直接は伝承できかねるものであるが、属している組織体に遺伝子として残す努力は、常々しておくよう心掛けることはそれなりに有効と思うからである。
回りくどい言い方をしましたが、計量行政は、少なくとも都道府県レベルでは過去から古い伝統と歴史を持つ計量行政協議会が、旧計量法施行昭和27年から自らの意志で共通の意思表明の場として持ち、ブロック別と全国都道府県の形態の組織で運営し、時宜に応じた問題点提起と課題解決に、ときには立法作業に、ときには論理展開に、ときには声高にリーダーシップを発揮しつつ、実務上の行動を実践し、態度をもって持てる力を示してきた伝統と歴史を持っている。
私も長い期間、若い時代から所長時代とその中で苦楽を共にしてきた。一言で言えば、仲間がいる。友である。以心伝心で言動できる同じ釜の飯を食べた朋輩である。血は水より濃しの間柄といえる何年経ても古くて新しい友である。このような組織体だから議論しても、甲論乙駁しても整然とまとまり同一行動できるし、できたのである。成績よりも良い友達、人脈を
自治大学校に6ヶ月であっても学んだことは全国に素晴らしい同期の友という人脈をもてた。自治大に入校に際し、ときの友納知事は、「良い成績をとって帰ってくるように」と申され、後の知事になった沼田部長は「成績よりも良い友達、人脈を作ってきなさい」とおおらかの表現であったが、帰ってきてみて申す意味が分かった。我々の時代は、全国おしなべて研修機関修了という必須事項があったので曲がりなりにも友を作れる環境があった。しかし、現代は現代の情報交換、伝達の方法がある。いくつかの会議や集合の機会をうまく活用し、人材育成の場や方法に意を用いたら案外センスの良い方法があるかもしれない。
官と民の真の意思疎通が欠けている
3年前に24年ぶりに計量界の息に接したとき、あれから3年経て、一番感ずるのは計量の官と民の真の意思の疎通が欠けている、薄いと思えてならない。お互いの会議に他人行儀でない態度で、自由に意思交換することのなんと少ないことか。公務員倫理という壁から難しいとか。余りにも小心翼々で情けない。計量の明日の夢が無さすぎる。
制度改正では説明責任を果たせ
今日この頃、あちらこちらから、計量法の2007年に計量制度の見直し時期から改正が見込まれると言われ始めている。何故、どのような背景から、どのような理由から、どうして現行法の何章の何条を改正しなければならないか、どのような事項や文言を新設しなければならないか、先ず明確に、国民に向かって、それよりももっと身近な地方計量行政機関に、逆に地方計量行政機関から問題提起が、なされなければならないし、説明責任が果たされなければなるまい。鉄則である。現行憲法は、まぎれもなく主権在民である。
法改正検討を密室にしてはならない
6月14日都道府県計量行政協議会総会が開催され、民間側としては有難いことに、「都道府県計量行政のあり方検討会」(仮称)の下部組織を設けて、地方機関としてのあり方を検討されると報じられている。必ずや計量行政対象の計量関係団体や計量人の意見や考え方を吸い上げてくれるものと信じている。しかし、いち早く制度改正の情報を入手し、法改正への対応やあり方に意見交換をはかるとも報じている。法改正の始めから密室の心配が見え隠れするようでは真の国民にとっての改正にはなるまい。
広く門戸を開き、時間をかけて説明を
本当かどうか真偽は、はっきりしないけれど、ときの計量の学識経験者の高名の方の言葉として、平成5年の改正時は、万機公論がなく、聞く耳もなかったと、誰が、と聞くと答えなし。聞く耳がついているならば、聞くまで何で叫ばないのか。国会は国民の選んだ議員がいる。何故、その前に大臣室へ行かないのか。答えは返ってこなかった。明快な改正をしようとする理由と、その該当する条文を分かり易く、広く国民に知らし、その根源を時間をかけて説明することこそ先決であり、広く門戸を開いておかなければならない。自分だけ良ければ他のことは意に介しないであってはならない。
話しを自治大在学の一事例を紹介してみたい。当時、各省庁は一局削減の行政改革が進行し、元局長が自治大学校長に就任した。その人の名は降矢敬義校長(後の参議院議員)、渾名は「リラックス校長」、その由来は入校時の訓辞である。
「君たちは選ばれて自治大に来たけれど、成績のみに気にせず、天下国家を考え、大局をみることを養い、良き友を作って帰りなさい。そのためには、毎日毎日姑息な手段と功名心を忘れ、リラックスにのんびりと過ごせ」139名の代表に選ばれる
奇想天外な言葉である。早速「リラックス」が合い言葉となり、渾名に即日なったのである。少々「私の履歴書」とはいえ、私事にわたり恐縮しますが、入校日、第一部31期のクラスリーダー(代表)を選ぶ習わしになっており、自治大学校庶務課長から「139名から正副1名ずつ選んでほしい。と言っても誰にするか今日顔を合わせたので何も分からないでしょう。こちらからまず提案するが、この大講堂の席を前列から最後列まで1から139まで番号札を机に席相当部分に貼ってある。この箱の中に1から139までの紙札が入っている。こちらからアイウエオ順に君たちの名前を呼ぶから、紙札を箱の穴からとりなさい。ただし、視力の弱いものは手をあげなさい」5名ほど手を挙げ、優先的に1から5まで決まった。その後は席当てクイズよろしく各自名指しの順番に引き、次々引き全員に紙札が行きわたった。6から座席の定位置が決まり、大講堂の6ヶ月にわたる長旅の席が決まっていく。なんと最後の139は私自身が引き当てていた。再び庶務課長から「席が決まったので1番から自己紹介(出身地、現在の職位、略歴、抱負)を一分以内でやるように」の指示である。私のところまでになんと二時間を要した。
全員が自己紹介終わったところで、再び庶務課長「公務員であるので、序列が常識であるので、課長補佐が7名、他は係長であるので、課長補佐から選んでいかがか」数人が手があがり、そのうちの1名が発言された。「課長補佐からが妥当です。一番最後139で発言された方。声も大きいし、139は大変名誉ある番号と言われ印象深い。我々139番は千葉県の齊藤さんとすぐ覚えた。齊藤さんにやってもらうことにしよう」発言が終わるや否や、全員大拍手である。マイクレスの渾名もつく
これも運命と引き受けの挨拶「色々皆さんの要望をきいて実現交渉をする。リラックス校長さんに」渾名の名付け親に併せてなってしまった。ついでに、交渉相手の副校長から「齊藤は、声がとおり、大きいから『マイクレス』とこれから呼ぼうよ」、逆につけられた渾名であり、光栄である。
2つの改革成し遂げる
いくつかの改革を歴史上できなかったことを、遂に校長までもちあげて説得できた事実があり、とてつもない成果を二つ成し遂げた。
卒業証書の成績順記載を廃止
全員の要望のうち、1つは卒業証書は成績順に番号が付され証書に書かれる定めである。何番で卒業したか一目瞭然、これは大変名誉の者もあり、逆に出来の悪い者は帰って小さくなって知事、副知事、部長に報告しなければならない者もいる。大問題である。過去に自殺未遂もいたとかの噂がながされる程の大関心事。クラス全員願ってもやまない難事である。副校長は、「ここは、そもそも大学校である。成績で順位のつくのは、ペーパーテストでは当然であり承知で入校してきた筈。」頑固に自説を貫く。校長に直訴「そもそも、ペーパーテスト(憲法、行政法、経済学)の教科に絞り込んだのは理解できるが、点数をつけて、それに論文は公平な点数を評価することが難しく1点、2点の差は主観が入り不公平、不公正で、それで自らの職場に戻り、一生ハンデを負うとはいかにも不合理である。在学中はおおらかに、のびのびと人間形成に励めという校長の論旨、論理から矛盾している。我々は試験を忌避するものでもない。堂々と能力測定として、どれだけ学習効果があがったかを判断してもらいたい。ただし、人間に順位を偶然性でつけないでほしい。しかも、一生付きまとうことは烙印になりかねない。入学試験とは違う。これから部下と組織の鏡になる人間形成を目指しています。」
成績主義では真の評価はできない
校長は、「主張の内容は一理ある。効果測定ということにしよう」話しは分かる偉人である。校長の全責任で決めた。校長を経て、やがて事務次官となられた大物の方である。その代わり落第生を出してはならないという強いお達しがきた。九州の某県の仲間が論文が書けず、代筆は出来ず、励まし続け何とか全員卒業無傷で故郷へ帰ることができた。その方は、元の職場に帰り、生き生きと幹部職員として県政に貢献した実績を残され、決して成績主義では人間の真の形成と評価はでき得ないことを実証している。
もう一つは出席簿の廃止
もう一つは、出席簿の廃止である。これ程40才前後の中間管理者の自治大学校生を信用しない前提と発想から出発している典型的性悪説の標本である。「人間が人間を管理するのはやめましょう。自分の責任ですべて行動をとります。我々の主張と違う者がいたら退学させて結構です」お願いの二つも聞いてくれた。ただ庶務課長が、大講堂へきて後から出席状況を念のため調べるときはありましたが、大学校側と我々は対立でなく協調して学べる楽しさと人間形成に努力したことだけは、胸を張って誰にでも率直に申すことができる一つの出来事である。
多くの友と行動を共にすることで道は拓ける
長々と述べたことは学校生活の管理の中で、相手の立場で考えるということを分かってもらうには、自ら努力して堅い壁にあたってこそ展望が開けることを体験し、計量の世界にも、現状で合点がいかないときは、多くの友と行動を共にとることにより、道が拓けると申してみたかったのです。一人で考え悩むより、苦楽を共にする友と悩み喜ぶことこそ王道です。
構想の実現へ行動おこす
さて、本編に戻し、大型はかり検定検査用の検重車使用に変えて、自前の能力で好きなとき、容易に、余り経費が多くかからずに済ませる道を探求し続け、私が二度目の所長として復帰してすぐに構想の実現に向けて行動をおこすことになり、これは最も強い行政指導を発揮することになりますが、裏付ける文書資料が依頼していた、恵藤計器(株)の恵藤太郎社長が自社の書類綴りから発見してくれたのである。
目次へ戻る