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日本計量新報 2009年5月3日 (2772号)

燃料電池車の開発と計測技術は切っても切れない関係にある

江戸時代の人は東海道を歩いて伊勢神宮に参拝することを大きな楽しみにしていた。参拝だけが楽しみの対象なのではなく、参拝のための全行程が行楽であったのだ。御伊勢参りの費用は大勢の人が加入する講によって賄われるから、その順番になった人は平和な気持ちで行楽することができる。御富士講でも同じことがなされていた。遠くに出かけること、旅することは人の密かな望みであり、旅することは楽しいことなのである。アフリカの海岸沿いの地で生まれたホモサピエンスが地球のあらゆる場所で暮らすようになったのは、人(ホモサピエンス)が移動することを本能として体内に持っているからであると説くのは論理に無理があるかもしれないが、結果として人は移動して地球全体に広がった。

 明治初年までの日本の物資輸送の主体は水運であった。北前船などを所有する廻船問屋とその関係者は大きな富を得ていた。江戸と銚子の行き来の主力は、運河を含めた水運であった。青物などは水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされていた。
 松尾芭蕉は深川の地に住んでいて、俳句の会には川船に乗って十間川、仙台堀川などを通じて遠くに足を伸ばした。日本の富士山頂を始めとする幾つかの土地の重力測定と地磁気測定をした東大理学部教授(帝国大学理学部教授)で国際度量衡員を努めた田中館愛橘は盛岡藩の人で、東京に出るまでの行程を次のように語っている。「東京へ出るには不便な時代ですから随分と時日を要しました。明治5年6月21日に盛岡を出発した。親戚は一生の別れと思い三里ほどの女鹿口迄見送ってくれた。盛岡から北上川を川船で石巻に下りそれから仙台に出、陸行して喜連川から鬼怒川を下り関宿に至り夜船で行徳に行きそれから川船で両国橋の下まで来た。伝馬町の南部藩定宿は満員で近所の伊豆屋に泊まったのが7月15日でした」。
 田中館愛橘は地震観測にも従事。1891(明治24)年10月に発生した濃尾大地震の震源地に翌月に赴き、根尾谷の大断層を発見した。また日本の航空事業の発達の中心人物として活躍した。1910(
明治43)年4月には航空事業視察のために欧州に派遣されている。1915(大正4)年11月には『航空機講話』を発行。1916(大正5)年4月には東京帝国大学航空学調査委員長に就任。以後飛行機の発達と航空行政ならびに計量行政にも国際度量衡委員その他の肩書きをもって関わっている。

 交通手段の経済活動との関わりは重要である。駱駝(らくだ)など動物の利用に始まり、牛車、馬車、人力の荷車、船、自転車、オートバイ、自動車、航空機、その他ブルドーザー、耕耘機など多くの機械が用いられてきた。夜の街には歩く人はほとんどおらず、タクシーや乗用車が駆けていく。
 人の移動、物流にとって、自動車はこの先なくてはならない手段である。現在の自動車産業の低迷は、小さく軽い車を小さなエネルギーで動かす方向に転換することで、回復されようとしている。長年軽自動車を育ててきた日本は、アメリカの「大艦巨砲主義」ともいえる大きくて豪華という自動車文化に対して、現在大きな優位性を保有している。ハイブリッドカー、電気自動車、燃料電池車といった、小さなエネルギーでしっかり動く自動車の登場とともに、日本の経済と産業は新たな様相を見せることになるだろう。このような技術開発に対して、計量計測機器産業がどのように関わっているかを想像することや実際の関わりを観察することは大事である。燃料電池車の開発と計測技術は切っても切れない関係にあると、計測企業の幹部社員も語っていた。

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