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日本計量新報 2016年4月17日 (3100号)

考える訓練が教育なのではないか

道行く人がその人の家の前をとおると老人が植木と庭の花をいじっている。袖振りあうも多生の縁であるからあいさつをする。老人はかろうじて<RUBY CHAR="","うなず">くだけだ。道を歩いていてすれ違ってもその老人は人とすれ違うという意識を表示しない。同じことをするのが生徒児童である。普通の人の感覚では不思議な光景である。

 生徒は中学をでるとコンビンエンス・ストアで働く。「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」と軽やかに声がでる。道であってもそこに人がいないという態度をしていた少年がこのようになる。コンビニのあいさつはお仕着せであり命令によってなされる。少年は家に戻ると店での挨拶は何だったのか、と思わせるように元のままになる。

 あいさつしない老人は教員をしていた。現役の国会議員であり議院の副議長をしている。家の前にいても近所の人と知っていても会釈もしない、あいさつもしない。親しくしている人とだけはあいさつを交わす。このようになっている日本であり、日本人である。あいさつを交わすのは親しくなった人だけだ。対比すると欧米人のあいさつは見事だ。日本人がエレベーターに乗り込むとそこでの沈黙は異常だ。何か方法を考えたい。

 町には小学生が描いた「笑顔であいさつをしよう」という標語ポスターが掲出されている。あいさつができていないことと、あいさつをしなければならないということの2つのことが織り込まれている。内気な日本人がここにある。

 内気な日本人は学校で詰め込み式の学習を強要される。それは教科書に書かれていることを覚えさせられるだけだ。実際には考えることは求められない。教科書の内容を簡単に理解できる者は評判の高い学校へ登っていく。現在の日本の大学が高等教育をしているのか疑わしい。中学校の教科を理解できていれば大概のことは自分で学ぶことができる。自分で学ぶ能力の育成こそが大事である。それなのに教科書に書いていることを覚えたかどうかということだけで人が評価される。最上級の評判の大学に入学した途端に数学は忘れてしまう。

 企業での人の鍛え方は一考を要する。考えさせること、実行させることが大事だ。先輩が手本を示してもそれができない者は多い。<RUBY CHAR="","">めても褒められるようなことをしていないから褒められた気がしない。企業内での訓練とか教育は資格取得のための学習に似ている。狭い範囲のことを学んでそれを理解すると<RUBY CHAR="一端","いっぱし">の者になったような気にさせられる。

 日本では資格取得をすることで収入を得ることができるという気運があり、このための学校が繁盛している。弁護士も会計士もアナウンサーも専門の学校での学習によって道を開く。公務員も同じであり国家公務員上級試験に合格するために大学のそとの場所で学習する。学ぶこととは考える力を付けることだと考えたい。励むべき勉学は資格などの狭い分野の学習と思ってはならない。オックスフォードやケンブリッジでは総合した力と専門の力の2つを同時に身につけさせる。社員の教育と訓練はこのことに学んだらよい。そうでないとコンビニエンス・ストアにおける少年のあいさつのようになる。

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