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日本計量新報 2016年5月22日 (3104号) |
社会の兵站としての計量と計量制度を説く日本は日中戦争を始めて、さらに米国などを相手にする太平洋戦争に突き進んだ。 気象庁の測器課長だった新田次郎(本名は藤原寛人)のおじである第5代中央気象台長の藤原咲平は、戦時中は軍の嘱託で風船爆弾の研究にも携わったことにより戦後公職追放となり、以後は野にあって著述をして過ごした。藤原咲平は1926年1月には寺田寅彦の後任として東京大学地震研究所員をしていた。長野県立諏訪中学校(現・長野県諏訪清陵高等学校)、第一高等学校第2部を卒業、1909年7月に東京帝国大学理論物理学科を卒業して、中央気象台(現・気象庁)に入所した人だ。 B―29爆撃機(中国の成都の基地から飛び立つ)による米軍を主力とする連合国軍の日本本土空襲は、1944年(昭和19年)6月に八幡製鉄所を目標に始まり、1945年8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下があり、この間に日本の産業都市と軍事施設への空襲がくりかえされた。空襲による死者は33万人、負傷者43万人(日本経済新聞、2011年)という資料がある。米国戦略爆撃調査団は30万人以上の死者、1500万人が家を失ったとしている。 日本各地への連合軍による空襲とその被害は次のとおり。 1945年(昭和20年)3月10日に東京大空襲(下町大空襲)があり、死者は8から10万人、負傷者は4から11万人、焼失家屋26万8000戸の被害があった。 1945年3月12日に名古屋大空襲(B−29が288機)があり死者602人、負傷者1238人、全焼2万9000戸の被害があった。 1945年3月13日に大阪大空襲(B−29・279機)があり、死者3115人、焼失家屋13万2459戸の被害があった。 1945年1月3日以降83日間で128回の神戸への大空襲があり、死者8841人、負傷1万8404人、焼失家屋12万8000戸の被害があった。同年3月17日の大空襲で旧市街地の西の地域が焼失した。 1945年(昭和20年)1月16日以降、合計20回以上の京都空襲があり死者302人、負傷者561人の被害を出した。 1944年7月14日 釜石艦砲射撃。一回目。死者515人以上。 1944年7月15日 室蘭艦砲射撃。死者436人。 釜石と室蘭は、硫黄島を基地としていたB−29の航続距離をこえていたために艦砲射撃となった。 1945年8月9日 釜石艦砲射撃。2回目。少なくとも死者301人。爆音は秋田市まで響いた。 1945年8月6日 広島原爆。 1945年8月7日 豊川空襲。豊川海軍工廠が空襲で壊滅。死者2477人。 1945年8月8日 八幡大空襲。B−29・127機。死者2952人、焼失家屋数1万4380戸(このときの火災による煙が、翌日の原爆の投下目標を小倉から長崎に変更させる一因となったとされる)。 1945年8月9日 長崎原爆。 以上のように日本本土への米軍を主力とする連合国軍の空襲と砲撃は産業都市でもある主要都市と軍需工場、軍事施設などである。攻撃は戦争能力をそぐためのようにもみえるが、ここまでやすやすと攻撃できる状態ではそれだけが目的ではなさそうだ。 1945年3月の硫黄島陥落後には、B−29にP−51戦闘機の護衛が付くようになった。日本軍のB−29迎撃の航空部隊は同月より始まった沖縄戦に向けられ、また九州への戦力配備のために迎撃能力はないのと同じになった。燃料ほか物資の欠乏により日本軍航空部隊の迎撃能力は破綻していた。 この時代の戦争は兵器の総力を競うものであり、上の事柄からも日本軍が米国と連合国軍にはるかに劣ることがわかる。それでも戦争に踏み込んだ。巧妙に誘い込まれたという見方もあろうが、戦争を遂行しその目的を達するための条件を整えず、かつその条件を考慮しなかったことがわかる。軍部が軍人の自己目的のために暴走するという国になっていたこともある。 風船爆弾は日本の高層気象台(現・つくば市)の台長だった大石和三郎らが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾を乗せ、日本本土から直接アメリカ本土空襲をおこなったもの。1944年11月から1945年3月までの間約9300発が放球された。アメリカ本土に到達したのは1000発前後と推定され、アメリカの記録では285発とされている。1945年5月5日、オレゴン州ブライで風船爆弾の不発弾に触れたピクニック中の民間人6人(女性1人と子供5人)が爆死したことが確認されている唯一の事例である。放球は1945年3月が最終であるため、この5月の事故は冬の間に飛来したものが雪解けによって現れたのではないかという。 藤原咲平は気象の専門家として風船爆弾作戦に動員されたのであった。 兵器、弾薬、食糧その他の必要な物資の補給や輸送をするための後方支援の活動・機関・施設の総称が<RUBY CHAR="兵站","へいたん">である。さきの戦争における日本軍の行動では兵器、弾薬、食糧の支援がおぼつかない状態まで戦線を広げた。フィリピン戦線では多くの兵士が餓死した。大岡昇平はレイテ島での日本兵の悲惨な進軍と退却のようすを戦記文学の形で記録している。ここでは兵站は機能しなかった。 計量と計量制度は社会の兵站であると、産業総合技術研究所電気部門の責任者(当時)が『日本計量新報』への寄稿で述べた。戦争に兵站があるように社会の運営にも兵站にたとえられる事柄があり「計量は社会の兵站」である。計量と計測の技術が発達していなければ高度な科学も産業も成立しない。計量制度が確かな形で実施されていなければ信用が成立しない。 計量が社会の兵站であることを説明するために別の事例を引いた。米国が真珠湾攻撃を日本のだまし討ちだとして国民の志気を高めるためにつかった。このことによって戦争への志願にためらいがなくなった。藤原咲平は米国の人々を恐怖させて志気を弱めるための作戦に動員された。これらのことも兵站に含まれるといっても藤原咲平には気の毒であった。藤原咲平は1932年に自ら会長となり霧ヶ峰グライダー研究会を旗揚げし、1934年には日本初のグライダー大会を開催するなど、日本のグライダー研究の草分けである。(本稿においては敬称を省略した) |
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