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日本計量新報 2016年6月5日 (3106号)

経済の底で働く生産力と社会体制の変動と計量の世界

生産力と生産関係のあいだの矛盾が大きくなると新しい社会体制に切り替わる動きが強まる。徳川300年は徳川封建制度政権維持のために諸制度が敷かれた。参勤交代は各藩の財政を削ぐように働いた。8代将軍吉宗の時代には技術開発を抑制する政策がとられた記録がある。鉄と金属の歴史研究者が江戸期の日本は鉄の生産量は欧州の先進国と同等であったと述べる。

幕末の勘定奉行の小栗上野介(忠順)は、日米修好通商条約の批准書交換のため1860年に遣米使節の目付として太平洋を渡り、米海軍造船所が製鉄を基盤にさまざまな部品を効率よく生産していることから、鉄の生産量は国力そもののであることを知って驚く。小栗上野介は日本における近代製鉄を横須賀製鉄所によって興す。

幕藩体制のもとで江戸幕府や藩などの財政は年貢として集められた貢租米に依っており、米を売るための組織として米問屋が成立した。江戸では人口100万人になるなど都市への人口の集積が進み、ここでの米需要が増し、米が商品になった。年貢米売却などの代金の決済を大手両替屋がおこなうようになる。両替屋は江戸屋敷への送金をし、資金が不足すると貸付をした。大坂で10人の両替屋がいた。天王寺屋五兵衛、新屋九右衛門、鍵屋六兵衛、坂本屋善右衛門、天王寺屋作兵衛、新屋杢右衛門、泉屋兵兵衛、誉田屋孫右衛門、鴻池善右衛門、助松屋利兵衛。NHK朝ドラに両替商が登場していて後に銀行や保険などの事業を興したことが描かれていた。

両替屋の信用をもとに貨幣の流通が増えるという当時の状況が窺える。藩の年貢米の決済、国許と江戸屋敷とのお金のやりとりには手形などが用いられた。貨幣の小判および丁銀の品位が鑑定され金座および銀座による極印以外に両替屋極印が打たれた。

両替屋が使うのが両替天秤である。両替天秤は京都の秤座製作のものだけに使用を限定する措置が1653(承応2)年になされ世襲された。分銅については後藤四郎兵衛家のみ世襲として製作が許されることが1661(寛文元)年に決められた。後藤四郎兵衛家は豊臣家から徳川家にいたるまでの大判の製造を一貫して請負わされていた。江戸時代から小判の鋳造を請負った後藤庄三郎家は、四郎兵衛徳乗を師とした庄三郎光次を祖とした。

両替商と大判小判の製造そして両替天秤の製作にまつわる逸話を取り上げたが、江戸期の増大した商品流通と何時しか増大する生産力の増大が幕藩体制という封建制度を壊す要因となっていたことを説くためである。

計量法の変遷に目を向けると、尺貫法からメートル法に変換する措置がなされた。計量器の流通量が多くなると国の責任による全品検定制度からユーザーの責任による検定制度へと移行し、このあいだに検定対象機種が大幅に縮小された。計量法は1966(昭和41)年の大改正の時までは、サシ、マス、ハカリなどに全品検定主義を貫いていた。

日本国の行政の在り方は地方分権一括法の成立によって大きく転換した。計量法は1999年に改正がおこなわれ、地方分権一括法に連動して分権化計量法に変わった。また自己認証思想を背景とする民活型基準認証制度に内容を変えた計量法関連の基準認証制度としての民活型基準認証計量法として法律改正がなされた。短い期間にほぼ改正された計量法はそれまでの地方公共団体の計量行政組織を縮小させる契機になってしまった。悪夢の「九九年改正計量法」である。

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