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日本計量新報 2008年3月16日 (2715号)

記号化とペラペラの早口言葉の第二日本語はわが身を映す鏡だ

携帯電話の大手の専門販売会社には、若い従業員だけがいて、彼らと顧客との会話は手引きのマニュアル文書から外れることがない。外れないのはいいとしても、マニュアル文書は丁寧な言葉を多用し、敬語は2重3重敬語となっているので話しをするのが嫌になる。
 敬語は聞き取りがたいほどの早口で話すものではないのだが、そんなことなどお構いなしで、相手の反応など意に介することなくペラペラと勝手にしゃべっている。人との対面ができない若い人、日本語が二つあるのではないかと思わせる新しい記号語を使う人々に、そして対面する人に畏敬や尊敬や優しさの気持ちをもてない人にできの悪い多重敬語を使わせるのだから、客の側は店員と会話をするのが嫌になり、「その言葉とその態度は違うだろう」とつぶやいていないと精神の安定を保てないであろう。
 電話会社の言葉の手引書のできの悪さから軽薄な若い第二日本語を常用する人間がつくっていると判断できるのであるが、記号的で軽薄なペラペラ用語の第二日本語しか使えない人々をビジネスの舞台にあげて顧客対応させるとなると、言葉そのものから随意性を抹消して完全にマニュアル化しないといけないのだろう。
 敬語とは、儀式ではなく心の自然な働きから生まれるものである。だから敬語に形式はなく、形式にもとらわれることはない。若い人々の全部がペラペラの軽薄な人間であるように錯覚することがあるが、道義、道徳、マナーということでいうと世代は関係ない。

 大学で教育と経営に従事するある人が次のように述べていた。人を採用するなら麻雀をするために大勢の人を集めることができる者を選べ、と。
 これは遊びを例にとっての表現であり、その他多くの分野で人を組織することができる人という意味であろう。人を組織して目的を実現することは「構想力」という能力を持っていることの証である。自分がある目標を持ち、それを人に説明して、理解させて、共に行動して、目的を実現するという一連のことができるという卑近な事例が、「麻雀をするために人を集められる人間」ということになる。
 モノをいわなくても常日頃その人が周囲の人々に意識され、何かあると手真似だけで意思が伝わるということもある。黙っていても人が付いて行くということでも人物の大きさがそこには隠されているからでもあろう。

 日本語には「その意のあるところを伝える」というのがある。
 ところが現代の日本人は「その意」を持たないように思われる。自分が何のために生きているのか、いま自分は何を目的に仕事をしているのか、自分の課題を実現するために周囲の人々や顧客に何を伝えるべきなのかということさえ持たない人々が増えている。「その意」そのものを持たない人々が増えているのだから、その意は伝えようがない。
 大きな電話会社の子会社の携帯電話の販売ショップでは顧客の要望を満足させようとする「その意」を持たない人々の集まりであるので、顧客に対する敬意がまったくないなかで多重敬語と丁寧語だけが突っ走って空虚な空間ができあがっている。日本全体がこのようにならないためには、人それぞれが自分の確かな目的と目標をもってその実現のために一生懸命に生きていくことである。
 それにしても役人言葉の「してございます」などは、その役人が何時覚えるのか知らないが、そのような言葉を平然と使えるということそのもの事態が日本人のまともな感覚からの遊離を物語る。軽薄な若い人々の行動はどのような人々にとっても他山の石であり、自分の姿を写してみる鏡でもある。


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