夏目漱石の『坊っちゃん』(ぼっちゃん)は1906(明治39)年、「ホトトギス」に発表された小説で、現代かな使いに直されていまなお人気の読み物の一つである。 東京の物理学校(現・東京理科大学)を卒業したばかりの江戸っ子気質で血気盛ん、無鉄砲な新任教師の主人公は四国の旧制中学校に数学の教師として赴任する。校長の狸、教頭の赤シャツ、画学教師の野だいこ、英語教師のうらなり、数学主任教師の山嵐らを登場人物として、従来の日本の象徴の坊っちゃんと西洋かぶれの象徴としての赤シャツらとの葛藤を描いたもので、腹に一物なく策略もなにもない坊っちゃんは赤シャツらに拳骨(げんこつ)をくれただけで松山から退散するという挫折と敗北の物語になっている。帰郷した坊っちゃんは、「街鉄」(現在の都電)の技手となって、清(きよ)と生活するが間もなく清が老衰で亡くなったので、遺言どおり小日向の養源寺に葬ったとして物語は幕を閉じる。街鉄の技手になったことはいかにも落ちぶれたように現代の人は思うかもしれないが、「東京市街鉄道」は1893(明治26)年に開通したばかりの当時最先端のハイカラな交通機関であり、そのエンジニアということだから「物理学校」卒業者にとって不足のない職業といえる。給料は教員時代の40円には及ばない25円ではあるが当時としては十分な額である。ともあれ漱石独特のテンポとリズムでの語り口は痛快であり、読後には爽快感に満たされる。 『坊っちゃん』が世にでた1906(明治39)年の「物理学校」の卒業者は51人。入学者1083人に対して4・7%であった。同じ年の数学の師範学校と中学校教員検定試験合格者に占める「物理学校」出身者は全合格者82人に対して47人であり、その割合は57・3%であった。物理は6人のうち4人で66・7%、科学は3人のうち1人で33・3%。『坊っちゃん』を書いたときに漱石は東京帝国大学文学部英文科講師の職にあり、一回り歳がいった東京帝国大学助教授の中村恭平と親交があった。中村恭平は「物理学校」の幹事・主計として実質的に経営と教育の責任者であって、後に「物理学校」第三代目の校長になる。中村恭平との親交をつうじて「物理学校」の内情を知っている漱石は「坊っちゃん」を「物理学校に」気軽に入学させ、何事もなかったかのごとく卒業させている。席順は下から勘定する方が便利であったが、不思議なもので3年たったらとうとう卒業してしまった、というように書かれているのはユーモアというよりも、当時帝国大学講師であって『坊っちゃん』を書いた翌年に朝日新聞に職を移す漱石の、学問なんて大したことはないのだという自戒と皮肉が込められていると思われる。当時の物理学校の修業年数は5学期2年半であり、1891(明治24)年以前は2年であった。 明治時代の中期から後期にかけて日本では度量衡制度が本格的に推進される。東京帝国大学仏語物理学科をでて駒場農学校で教鞭をとっていた高野瀬宗典は、1886(明治19年)に農商務省の権度課課長に任命される。高野瀬宗典は1889(明治22)年に陸奥宗光が農商務相に就任し、斎藤修一郎が次官になった機会をとらえて度量衡法を制定させる。 高野瀬宗典は権度課課長のかたわら、夜には「物理学校」で熱学を教えていた。度量衡法の制定にともない権度行政の施行体制の整備は緊急の課題であり、そのためには人材の育成をしなければならない。高野瀬宗典は東京帝国大学仏語物理学科の1年先輩で、当時物理学校の校長をしていた寺尾寿に修業年限1年2学期の度量衡科の新設を依頼してこれを実現する。1891(明治24)年のことである。度量衡科は数学、物理などの基礎科目にくわえて各国の度量衡制度、測度器論、度量衡論などを学んだ。 寺尾寿は高野瀬宗典を物理学普及にかかる同志と呼んでいた。度量衡科の設置も国にまかせていたら何時になるかわからない、物理学校だからこそ臨機応変に対応できるし、また即戦力になる人材の養成もできる、また学校経営上も損はないと考え、度量衡官吏の養成はのちに国の機関に移されることになるが、物理学校度量衡科修了の大阪府権度課長の立場から度量衡行政に手腕をふるった関菊治氏などを排出した。度量衡科設置にあたり高野瀬宗典は寺尾寿に「度量衡制度はできたがわが国には度量衡機器の検定をしたり、製作するさいの知識を有する者が決定的に不足しているので、物理学校に度量衡科を設けてその人材を養成してほしい」と強く要請したのである。当時の日本は度量衡器をはじめ各種の計測器や科学機器の製造の手ほどきを役所が行うという状況であった。第二次大戦後しばらくたってもこのような状況にあったが、いまでは計量機器の製造の実は計量機器メーカーに属する。寺尾寿は東京帝国大学仏語物理学科を卒業しフランスに留学中に日本で最初の理学士の称号を得、フランス留学から帰ると28歳で東京帝国大学理科大学教授兼東京天文台台長の職に就いた。 「物理学校」は東京帝国大学の物理教員や卒業生が集まってつくった学校であるといってよい。当時の東京帝国大学総長の浜尾新は「寺尾の物理学校」だからということで特例で実験機器の貸し出しをしたり卒業式に出席して祝辞を述べることをならわしにしていた。物理学校は1881(明治14)年9月11日に東京物理学講習所として開校している。それから13年を少し経た1894(明治28)年2月17日の卒業式には物理学校創設者およびその関係者が大学や役所の要職に就くようになっていたから豪勢なものであった。東京帝国大学総長浜尾新はこの日の祝辞で「東京帝国大学理学部を初めて卒業した20余名の本邦初の理学士たちが物理学校を設置し」と述べている。卒業式には教育界の大物が多数出席していたため懇親会はこの上ない社交場となった。ここには東京帝国大学理科大学学長の菊池大麓(東京帝国大学第5代総長)、同教授山川健次郎、田中館愛橘の姿があった。 山川健次郎は1901(明治34)年 48歳で東京帝国大学総長となった物理学者(1888〔明治21〕)年東京帝国大学初の理学博士号を授与された白虎隊の生き残り)。菊池大麓は度量衡行政に研究・検定業務の責任者として一時関与。田中館愛橘は日本人初の国際度量衡委員であり国際舞台で活躍し、ローマ字論者でもあった。 田中館愛橘は重力や地磁気の測定のため日本各地を歩き回った人でもある。「寺尾の物理学校」の寺尾寿と山川健次郎、田中館愛橘はローマ字普及運動の仲間で寺尾寿を委員会の委員長として「日本式ローマ字」を提唱したがヘボン式にそれを譲ることになり、1885(明治18)年6月に『ローマ字雑誌』をだしてヘボン式を日本に広めた。田中館愛橘はこの2年前、長女出産時に妻を亡くしておりその後終生独り身をとおし長女が奥さんの役割をする。 その田中館愛橘に寺尾寿は「おい、元気でやっているか」と慰めの言葉をかける。田中館愛橘は国際度量衡委員、寺尾寿は度量衡官吏養成のための物理学校度量衡科設立の要人、菊池大麓は東京帝国大学第5代総長になったほか一時は度量衡器検定所の所長でもあった。明治時代の中期から後期、そして大正時代、昭和の中期までは度量衡が東京帝国大学や物理学校などで大きな位置を占めていて、学校責任者が度量衡行政と深く関わっていたのであった。